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フランスの変身

2007年10月16日  田中 宇

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 フランスは20世紀はじめから、イギリスの好敵手として振る舞うことが国家戦略だった。正確には、イギリスが「国際社会」という舞台の大仕掛けを演出するために、好敵手としてのフランスを必要としており、フランスはイギリスの要請に応じて振る舞ってきた。

 18世紀、イギリスとフランスが植民地としてのインドの奪い合いをしたころは、まだイギリスはインドのすべてを支配したいと考えており、イギリスに敗北したフランスは、インドにおける支配権をほとんど失った。しかしその後イギリスは、金がかかりすぎて儲からない植民地支配を嫌がるようになり、支配の効率化を模索した。

 そして行われた方法の一つが、フランスなど他の欧州諸国と組んで世界の諸地域を分割し、一番ほしい区域はイギリスが取るが、それ以外の区域はフランスやドイツなどにやってしまう「分割戦略」だった。その地域の被支配住民が反乱を起こしたときには、イギリスだけでなく他の欧州列強にも派兵してもらえるので、軍事費など植民地運営費を節約できた。植民地の中には独立を希求するところが増えたが、独立しても「旧イギリス領」と「旧フランス領」は別々の国になるので、強国になれず、いつまでも欧州の旧宗主国から完全には自立できない。

 分割は、20世紀初頭の前後に、中東、アフリカ、東南アジア、中国などで試みられた。これらのうち、中国以外では、今も分割時の境界線が国境になっている。中東とアフリカでは、分割の後遺症が続いている。(中国では、アメリカの方針で分割が食い止められ、アメリカ肝いりの孫文らによる中華民国の建国と、その延長線上にある中華人民共和国という統一国家が成立した)

 分割戦略では、欧州諸国の間で対立があるような状態にしておく必要がある。フランスとイギリスは仲が悪いということにしておけば、地元の勢力が宗主国と何か交渉したくても、イギリス、フランスと別々に交渉しなければならず、非常に手間がかかる。このような事情から、イギリスとフランスは、裏では連携を取り合いつつ、表向きはライバルとして振る舞ってきた。

▼フランスはイギリスの「やらせの敵」

 裏表のある英仏関係を象徴する歴史的出来事の一つは、中東のオスマン・トルコ帝国を分割した1916年のサイクス・ピコ秘密協定である。この協定で、イギリスはパレスチナ(今のイスラエル、パレスチナ占領地、ヨルダン)を取り、フランスはシリアとレバノンを取った。中東では、フランスよりイギリスの影響力が強かったが、イギリスの外交官マーク・サイクスは、フランスの外交官ジョルジュ・ピコの老練な交渉術に負けて、シリアとレバノンという過分な広さの地域をフランスに取られてしまったことになっている。しかし、私が見るところ、この公式説明は信用できない。

 フランスは、海岸沿いのレバノンは欲しかったが、内陸のシリアは欲しがらず、シリアの中心地ダマスカスにフランス軍を派遣するのを面倒くさがった。イギリスは、一時はシリア領としてフランスにあげたモスル周辺(今のイラク北部)に大きな油田があることがわかると、船の燃料が石炭から石油に代わる時期に、モスルをフランスから取り戻し、英領イラクに組み入れている。こうした経緯を見ると、イギリスは中東支配を効率的に行うためにフランスを誘い、フランスはレバノンをもらえるので、受動的にイギリスの策略に呼応したのだと考えられる。

 イギリスは、表ではライバル、裏では連携している欧州諸国をとりまとめて「国際社会」を形成するように仕掛け、世界の主要な問題を、この国際社会の中で話し合って解決する暗黙のルールを作った。国際社会の中では、イギリスが他の諸国をわずかにリードする態勢が維持された。こうすることにより、世界のことを決めるのは事実上イギリスだが、表向きは国際社会の中で話し合って国際問題を解決し、解決時の派兵や援助などのコストも国際社会の中で負担しあうシステムを作った。

「国際社会」を使ったイギリスの隠然支配による分け前に満足できなかった後発のドイツは、本気で独自の拡張戦略を希求したため、イギリスと二度にわたって戦争した。ドイツは2度目に負けた第二次大戦後は、イギリスによって、冷戦を活用した「50年の東西分割の刑」に処せられた。

 イギリスによる隠然とした覇権体制である「国際社会」を組織化したのが、国際連盟や国際連合である。国際連盟は第一次大戦でイギリスがドイツに勝った後で、国際連合は第二次大戦でイギリスが日独伊に勝った後に、国際連盟の改訂版として作られており、いずれもイギリス中心の覇権体制の組み直しだったことがうかがえる。これらの組織の中で、フランスは常に、イギリスに次ぐ主要国の地位を与えられ、イギリスの好敵手として振る舞い続けた。ドイツや日本は、イギリスの本当の敵にされて潰されたが、フランスはイギリスの「やらせの敵」として維持された。

 二度の世界大戦によって欧州列強は自滅的に疲弊し、イギリスは、欧州列強のリーダーを続ける意味が減った。二度の大戦の間に、イギリスは、欧州よりアメリカを重視するようになり、アメリカの政界やマスコミ、経済界、学界に多くの親イギリス勢力(エージェント)を作ってアメリカを隠然と動かし、アメリカを「孤立主義(国際不干渉主義)」から「国際主義」に転換させて覇権国に仕立て、イギリスがその黒幕になる戦略に切り替えた。

 第二次大戦後、世界の中心は「欧州」から「米英同盟」に切り替わり、イギリスは米英同盟を強化するために米ソ冷戦を扇動し、アメリカが欧州を傘下に入れてソ連側と敵対する冷戦構造を恒久化することに成功した。イギリスの在米エージェントたちは、自由・民主・人権といった言葉に奮い立つ、お人好しのアメリカ人の世論をうまく操った。

▼米英に対抗するライバルを演出

 冷戦時の米英中心体制のもとでも、フランスの役回りは「米英のライバル」だった。第二次大戦中、ドイツに占領されていたフランスは、戦後の復興を米英に頼るしかなく、戦後、1950年代末までのフランスは、ベトナムやアルジェリアなどの植民地の独立を阻止すべく、イギリスと同歩調をとっていた。だがその後、フランスは1962年にアルジェリアが独立し、主な植民地をすべて失った後、当時の「アメリカ帝国主義」が非難されていた世界的な傾向に乗って、アメリカの世界支配を嫌う自主独立外交路線に転換した。

 フランスは、1964年には共産中国との国交を正常化し、66年には、アメリカ中心の米欧安保同盟であるNATOの軍事部門から脱退(政治部門には引き続き在籍)するとともに、同年にはソ連と関係改善し、イスラエルを批判してアラブ寄りの姿勢に転換したり、アメリカのベトナム戦争を非難し始めたりした。(ベトナム戦争は、フランスによる植民地独立阻止戦争をアメリカが引き継いだものなので、フランスの転換は皮肉だ)

 フランスは、欧米や、第三世界のアジア・アフリカ・アラブ諸国でアメリカ批判を強める左翼勢力と連携するような姿勢を採りつつも、本気でアメリカと敵対することはなかった。フランスは、国連などの国際社会の議論の場で、たびたび米英に対抗する提案を行い、左翼的な第三世界の主張を代弁したが、これは結局、国際社会の議論が、右寄りの米英と、左寄りのフランスの提案の間のどこかで決着するように仕向ける「ガス抜き」の枠組み作りだった。

 フランスが米英に対抗する主張をすることで、フランスよりもっと反米英の立場に立つソ連のもとに第三世界の勢力が結集しないように仕向けられた。フランスが米英の敵として振る舞うことで、国際社会の議論は、米英仏の西側諸国が作った枠内におさまり、それをはみ出してソ連寄りの主張を言い続ける勢力は、極論を言う「極左」として国際社会から除外された。

 1989年の冷戦終結後、フランスにとって最重要のことは、米英覇権との関係ではなく、ドイツと協調してEU統合を成功させることへと転換した。独仏を中心としたEUは、米英覇権とは独立した世界の覇権になることが最終目的であるが、そこまで行くには欧州内外の調整に長い時間がかかる。90年代から最近まで、独仏などEUは、従来どおり米英中心の世界体制の傘下に居続けながら、EU統合を進めるという移行期にある。米英中心の世界の枠内で米英に楯突くフランスの役回りは変わらず、2003年の米英のイラク侵攻の際には、フランスはアメリカを非難した。

▼米英イスラエルに接近したサルコジ

 今年5月、フランス大統領に就任したニコラ・サルコジは、米英覇権の好敵手であり続けるという従来の国家戦略からの離脱をはっきり打ち出した。サルコジは、大統領就任前の選挙期間中から「親米」「親英」の方向性を表明し「米英流の経済合理化によって、フランス経済を強化する」という戦略を掲げた。大統領就任後は、休暇でアメリカを訪問し、ブッシュ大統領と親密な交際を展開した。(関連記事

 サルコジは、選挙戦の段階から「親イスラエル」の方向性も出している。選挙では、フランスのユダヤ人のほとんどがサルコジに投票した。母方の祖父がユダヤ人であるサルコジが、フランスを、過去40年間続いた親アラブの姿勢から離脱させ、親イスラエル・反アラブに転換させてしまうという危惧が、アラブ諸国に広がった。(関連記事

 サルコジは当選後、アラブ系の人物を閣僚に登用し、バランスをとってみせたが、8月末に行った政策演説では「(私は)イスラエルの友だちだ」と宣言し、イスラエル寄りの姿勢を改めて明確にした。その後もサルコジは折に触れて、イスラエルを擁護している。(関連記事

 サルコジがフランス政界内で台頭し、大統領候補にまでなれたきっかけとなった出来事は、彼が内務大臣だった2005年11月に起きた、パリ郊外などでのイスラム教徒のアラブ系青年たちの暴動を、うまく鎮圧したことだった。サルコジは、アメリカの「テロ戦争」の影響で「反移民(反アラブ系)」の感情が強まっていたフランスの世論に乗って、反移民的な言動を繰り返して人気を集めた。

 05年11月の暴動は、フランスのアラブ社会に入り込んでいるイスラエルの諜報機関がサルコジのために扇動したという指摘がある。ドイツのジャーナリスト(Udo Ulfkotte)によると、暴動時のフランスのアラブ系居住地域で、イスラエルの諜報機関の中で破壊行為扇動担当のメツァダ(Metsada)と、心理戦担当のLAPが活動しているのを、同じ地域に入り込んでいた英独の諜報機関が見つけたという。(関連記事

 これが事実かどうか断定しかねるが、事実だとしたら、イスラエルはサルコジを当選させる見返りに、サルコジに親イスラエル路線を採らせたと考えられる。フランスではアラブ系住民が差別されているが、05年の暴動は、差別撤廃を求めたものではない。イスラム主義の宗教運動でもなかった。暴動は、政治宗教の運動でもないのに飛び火して拡大し、いつの間にか終わった後は、サルコジの人気の高まりだけが残った。(当時、私はこのテーマで解説記事を書こうとしたが、どうも不可解なままで、何も書かずに終わった)

 イスラエルが混乱を起こすことで外国の政権に食い込んだ例としては、1980年に共和党レーガン政権ができた時の選挙がある。当時、イランでイスラム革命が起きていたが、イスラエルの諜報機関はこれを反米運動にすべく扇動し、たまたま発生したテヘランのアメリカ大使館人質事件を長引かせ、解決に向けて展開された民主党カーター政権の作戦を失敗させ、カーターの人気を落とした(当時のイランには多数のユダヤ系国民がいた)。その一方でイスラエルは、レーガン陣営とイラン側との秘密交渉をお膳立てし、レーガン陣営に人質事件を解決させるとともに、当選したレーガンの政権にイスラエル系の人材を多く送り込んだ(その中に、後の「ネオコン」がいた)。

 中東における米英の覇権は、もう先が長くない。米軍がイラクから撤退したら、イスラエルは中東における米英の後ろ盾を失う。だから、イスラエルがその後のことを考えて、米英以外の後ろ盾として、フランスに接近するのは納得できる動きだ。そして、レーガン当選時の前例を考えると、イスラエルがフランスの暴動を扇動し、サルコジを当選させてフランスに食い込もうとした可能性はある。

▼米英覇権衰退を見越したサルコジの親米英

 サルコジは、イスラエルに乗せられて「米英イスラエル中心主義」にテコ入れするために大統領になったとも考えられるが、私が見るところ、サルコジは、もう崩壊が目前の米英イスラエル中心体制に、今さら加担するほど間抜けではない。

 サルコジは、口では親米路線を表明しているが、アメリカのためにフランスの従来方針を変えることはしていない。たとえばアメリカは以前からフランスに、農業補助金を減らせ(アメリカの農業産品の輸入を増やせ)と要求し続けているが、サルコジは自国の農業補助金の維持を早くから表明し、EU市場の対外開放を抑制しようとしている。(関連記事

 サルコジは「米英の市場原理主義はすばらしい」と言いつつも、その一方で、仏・独・英などの企業の合弁で旅客機を作っているエアバス社の態勢を、従来より国家統制(反市場原理)の方向に転換させようとしている。今年6月、サルコジはドイツのメルケル首相に、独仏政府でエアバスの運営を考える会議を開こうと提案し、メルケルに「ドイツでエアバスに経営参加しているのは政府ではなく、民間企業であるダイムラー社なので、政府の出る幕ではない」と断られている。(関連記事

 市場原理重視のイギリスは、エアバスの完全民間所有と株式公開を求めているが、サルコジはこれに反対で、逆にエアバスへの政府の影響力を強めることで、欧州の国家経済を強くしたい。そこで、ドイツを誘って談合しようとしたが、きまじめなドイツは、以前に決めた市場原理制を貫こうとしている。サルコジの米英接近は言葉だけで、実際に彼が最重視しているのは、フランス、そして独仏協調によるEUを強化することである。

 サルコジが言葉の上で親米英路線を打ち出しているのは、おそらく、アメリカの覇権衰退が目前で、もはや米英中心の世界体制が崩れつつあるからだろう。米英が世界の中心であり続けるなら、フランスは米英に楯突いてライバル役を演じるのが、国際利権獲得の良策であるが、米英の覇権が崩れるなら、もうライバルを演じても意味がない。むしろ、米英が手放さざるを得なくなる利権の一部をスムーズにもらい受けるため、米英と表向き仲良くしておいた方が良い。

▼ビルダーバーグの代わりに欧州賢人会議

 サルコジは、NATOの軍事部門に41年ぶりに復帰する意志も表明しているが、これも、アメリカの覇権衰退によって、NATOがアメリカ中心・欧州従属の同盟体制から、米欧対等の同盟へと変質し、もしかするとNATOからEU統合軍が離脱していくかもしれないという今後の状況下で、フランスの発言権を確保したいという思惑に違いない。(関連記事

 フランスは、サルコジ政権になる前の1995年ごろから、NATO軍事部門に再加盟する方向でNATO会議に参加しており、再加盟はサルコジが始めた政策ではない。ちょうど大統領がシラクからサルコジに代わった今年、ドル下落やイラク占領失敗など、アメリカの覇権凋落の傾向がはっきりしてきたため、再加盟を前よりはっきり打ち出したということである。

 サルコジは8月末の政策演説で、欧州統合の未来像を決定するための全欧賢人会議を作ることを提案している。これも、米英中心体制の崩壊と関係がある。(関連記事

 従来、欧州の賢人会議として有名なものに、毎年1回開かれる完全非公開の「ビルダーバーグ会議」があった。この会議は第二次大戦後、イギリスの誘導で結成され、アメリカから30人、欧州から90人の政財界の有力者が集まり、国際問題を話し合ってきた。人数構成からわかるように欧米協調の会議で、しかも重要問題の提案者は、キッシンジャー元国務長官や、ネオコンのリチャード・パールなど、大体がアメリカ人だった。(関連記事

 ビルダーバーグ会議は、アメリカが単独覇権主義を掲げてイラクに侵攻し、欧米間に亀裂が入った後、意義が低下している。今後、米英中心体制が崩壊するとともに、重要性はさらに低下するだろう。今後の欧州にとってはむしろ、サルコジが提案したような、欧州内だけの多国間の賢人会議が重要になる。フランスにとっては特に、ドイツとの2国間の非公式の意見交換が重要になるだろうが、これは公式に提案するたぐいのものではない。

 サルコジはまた、G8について「中国、メキシコ、ブラジル、インドをG8に入れてG13にすべきだ」と主張している。今の米英中心のG8を、中国やロシア、ブラジルなど「非米諸国」の力が強い多極主義的な国際意志決定組織にすることを容認している。フランスは、欧米中心主義から多極主義への世界体制の転換をはっきり容認するようになった。(関連記事

▼アメリカの覇権衰退を埋める地中海同盟

 サルコジとイスラエルとの関係も、イスラエルがサルコジを傀儡化するというより、サルコジがイスラエルを滅亡から救うかもしれないという関係になるだろう。

 サルコジが打ち出している戦略の一つに「地中海同盟体を作る」というのがある。これは、フランスを中心に、地中海に面している16カ国が同盟体を作る構想で、来年には結成される予定になっている。同盟体にはフランス、スペイン、イタリアというEUの主要国3つのほか、トルコとギリシャという敵対する2国、エジプト、シリア、レバノンというアラブ諸国、リビア、アルジェリアなどの北アフリカ諸国、それからイスラエルとパレスチナ自治政府が入る。(関連記事

 サルコジは、すでに同盟体を意識した戦略を展開している。親イスラエル路線の表明はその一つだ。また今年7月には、サルコジ夫人がリビアに乗り込み、リビア政府から「エイズをばらまいた」として死刑判決を受けていたブルガリア人などの5人の医療団についてリビアの最高指導者カダフィから恩赦を取り付け、救出している。この話は同時に、フランスがリビアに原子力発電所を作り、ミサイルを売る契約を結ぶという利権がらみだったが、全体として、地中海同盟の一カ国となる予定のリビアと欧州との対立関係を解くことに役立っている。(関連記事

 サルコジは、アメリカが「テロ支援国家」扱いしているシリアのアサド大統領との話し合いをしたいと表明しているが、これも地中海同盟を意識した言動である。スペインやイタリアも、地中海同盟を意識した活動を数年前からすでに始めている。スペインのマドリードでは、パレスチナ和平会議が何度か開かれているし、昨夏のイスラエル・レバノン戦争後のレバノン南部への和平監視軍の派遣には、イタリアとフランスが積極参加した。(関連記事

 サルコジは、当選前からトルコのEU加盟に強く反対しており、トルコはEUではなく、地中海同盟に入ることに自国の未来を見出すべきだと提案している。トルコは、地中海同盟について「トルコをEUに入れない目的で、サルコジら欧州側が、たいして中身のない組織を創設しようとしている」と不信感を持っている。

 しかし、今後イラク撤退(やイランとの戦争?)によって中東での覇権を大幅縮小しそうなアメリカに代わり、フランスやスペインが牽引する地中海同盟は、中東を安定させることができる組織として機能しうる。アメリカではすでに、地中海同盟は中東でのアメリカの覇権を侵害するという指摘が出ている。しかし実際には、覇権争いになるのではなく、アメリカが覇権を失った後の真空状態を埋めるものとして、フランスなどEUとイスラム諸国・イスラエルとの地中海同盟が力を持つことになるだろう。(関連記事

 フランスは、北に向かってはドイツとの同盟体であるEUを持つ一方、南に向かっては地中海同盟の先導役という、2つの国際戦略(覇権)を持ちうる。

 今後の中東では、アメリカのイラク撤退がいつになるか、イランとの戦争が起きるのか、それがイスラエル周辺に波及するのか、その中東大戦争によって中東諸国のうちいくつかが潰れ、国境線が引き直されるのか、といった不確定要素がいくつも存在する。だが、今後10年程度の期間で、米英イスラエルの覇権が衰退していくのは、ほぼ確実である。その意味で、サルコジの地中海戦略は、中東大戦争の「戦後」を見据えたものになっている。

 今後予測される大激動の中では、従来の体制の延長上で思考しがちな官僚組織に戦略立案を任せると、激動に応じた戦略の変更ができない。そのためサルコジは、大統領の権限を強化し、首相以下の閣僚やその下の官僚組織の権限を剥奪してしまった。その分、大統領側近で構成するホワイトハウス式の「安全保障会議」の権限が強くなっており、ひょっとすると、ブッシュ政権と同様、側近の中にネオコン的な勢力が混じっているかもしれない。そのあたりのことは今後、わかってくるだろう。



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