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国父の深謀

2008年5月23日   田中 宇

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 東南アジアのマレーシアの政界は、独立後初めて、二大政党制が誕生するかもしれない状況になっている。マレーシアはもともとイギリスの植民地で、第2次大戦後の大英帝国の退潮の中、1963年に独立した(イギリスはこの4年後、スエズ以東からの総撤退を発表した)。

 その後、多数派であるマレー系の右派(マレー系中心主義)の政党「統一マレー国民組織」(UMNO)による、事実上の一党独裁体制が続いてきた。(形式的には、少数派の中国系、インド系の政党との連立与党「国民戦線」になっている)

 ところが、今年3月8日に行われた総選挙では、アンワル・イブラヒム元副首相が率いる野党「人民正義党」(Keadilan)が、連邦議会(下院)の3分の1を取り、地方でも13州の州議会のうち5州で多数派となる大躍進を果たした。222議席の下院では、連立与党は1969年以来初めて3分の2の絶対多数を割って140議席となった。人民正義党は、中国系の左翼政党と、マレー系イスラム政党と野党連立を組み、3党合計で19議席から82議席へと急増した。4月28日、選挙後の議会が招集された。(関連記事

 人民正義党の事実上の指導者であるアンワルは、1998年9月、男色と汚職の疑いをかけられ、当時の首相マハティールから辞めさせられて逮捕され、2004年に裁判所が男色は冤罪だったと認めるまで、投獄されていた政治家である。人民正義党の党首は、公民権を剥奪されていたアンワルに代わり、妻のワンアジザがつとめてきた。

 1981年から2003年まで首相をつとめたマハティールは、マレーシアの高度経済成長を実現した「国父」「中興の祖」的な存在の政治家で、強いカリスマ性を持ち、今でもマレーシアの人々から指導者として見られてきた。マハティールはかつてアンワルをUMNOの若手ホープとみなし、重要ポストを歴任させたので、多くの人が、いずれアンワルがマハティールのあとを継いでUMNOを率いていくと予測していた。アンワルの人気もマハティールに劣らず高かった。

 アンワル失脚の際、多くのマレー人は、マハティールがアンワルに濡れ衣をかけて失脚させたと勘づいた(事実、その後男色は冤罪が確定した)。数万人のアンワル支持者がマハティールの自宅前で抗議集会を開き、アンワル自身もマハティールを非難した。その晩、アンワルは逮捕された。マハティール支持者も、なぜマハティールがアンワルに濡れ衣をかけて辞任させるのか理解できなかったが、尊敬するマハティールの決断なのだから、それに反対するのは良くないと考え、アンワル支持者を非難した。アンワルとマハティールの両方を尊敬していた多くのマレー人が混乱し、互いに言い合いをして喧嘩し、不条理に泣いた。

▼相次ぐ鞍替え

 それから10年、アンワルの男色容疑は冤罪が確定し、汚職についても曖昧なまま刑期が終わった。総選挙後の今年4月15日には5年間の公民権停止処分が満了し、アンワルは再び政治家として活動できるようになった。(関連記事

 一方、与党UMNOは、3月8日の総選挙に負けた後、大混乱となった。マハティールがアンワルの代わりに後継者にしたアブドラ・バダウィ現首相と、党内の最高権威者であるマハティールとが、党員たちの面前で罵倒しあった。マハティールはアブドラに「お前が腐敗した政治をやったから負けたんだ」と非難し、バダウィは「わが党の腐敗体質を作ったのはあなたですよ(私はそれを引き継いだだけです)」と言い返した。

 マハティールとアブドラの対立は激しさを増し、マハティールは5月19日、自分が30年かけて作ってきたUMNOを脱退し「アブドラが辞めないかぎり復党しない」と捨てぜりふを発した。アブドラの方は、検察を動かしてマハティールの過去の腐敗を暴く捜査を開始した。(関連記事

 UMNOの権威と人望が揺らぐ中で、アンワルへの期待は10年ぶりに再び高まり、UMNOの議員や党員たちの中から、脱党してアンワルの人民正義党に鞍替えする人が出てきた。アンワルは、自らに対する信任の急上昇をふまえ、3年以内、早ければ今年中に与党を転覆し、自らが首相になるだろうと表明している。連立野党は下院の4割を取り、しかも野党側に鞍替えの意志を伝えながらまだ与党に残っている議員もかなりいるので、アンワルの予測は誇張ではない。(関連記事

 今後UMNOで有力議員の脱党者が相次いだ場合、アブドラ首相は解散総選挙を余儀なくされる。現状で解散総選挙になれば、圧倒的にアンワルに有利で、年内の政権交代が現実になる。マレーシアはUMNOと人民正義党という2つのマレー人政党を軸として、そこに中国系とインド系の政党、イスラム主義政党が絡んでくる二大連立政党制になっていく見通しが出てきた。マハティールが引き起こしているUMNOの混乱が、この変化に拍車をかけている。

▼マハティール脱党の謎

 マハティールはなぜ、自分が育てたUMNOを去ったのだろうか。彼は82歳と高齢なので、年老いて頑固になり身勝手な行為に出たというのが常識的な見方かもしれない。企業の高齢のワンマン経営者にも似たような話が時々ある。アブドラから過去の腐敗で検挙される前に脱党したとか、アンワルが与党になって仕返ししてくる前に引退したのだという見方もある。(関連記事

 しかし、マハティールに対する捜査は、マハティールがアブドラを攻撃しすぎた報復である。アンワルの脅威も、そもそも10年前アンワルに無実の罪を着せて投獄したのはマハティールである。すべてマハティールの自業自得であるが、これを独裁老人の間抜けな失策と片づけるには違和感がある。マハティールは、そんなに間抜けではない。

 この間マハティールの行為の流れを見ると、10年前に濡れ衣を着せて投獄したアンワルが罪を晴らし、3月の選挙で圧勝し、次はUMNOから与党の座を奪おうとするときになって、アブドラとの喧嘩によってUMNO内の混乱を拡大させ、自分も脱党してUMNOを弱体化させ、次の選挙でアンワルの人民正義党が勝ちそうな状態を出現させている。これが間抜けさの結果ではなく、意図的な10年戦略の結果だとしたら、マハティールは、マレーシアをUMNOの一党独裁から、UMNOと人民正義党との二大政党制に移行させるための長期戦略を展開してきたとも考えられる。

 マハティールがアンワルに濡れ衣をかけて失脚させ、逮捕した1998年は、アジア通貨危機の結果としてインドネシアの独裁スハルト政権が転覆させられた年である。インドネシア通貨危機に際し、アメリカが動かすIMF(国際通貨基金)は、融資の条件として、インドネシア国民が食糧や燃料を安く買えるようにしていた政府補助金の廃止をスハルト政権に命じた。スハルトは、補助金を廃止して国民の怒りをかい、国民の反政府運動によって失脚させられたが、事実上スハルトを倒したのは、補助金廃止を強制したIMFであり、その背後にいるアメリカだった。

 アメリカは、通貨危機を口実に、独裁のスハルト政権を国民に転覆させた。1998年のインドネシアで展開されていたのは、2003年以降にイラクなどで展開された「政権転覆」と同じ、アメリカの世界民主化作戦だった。インドネシアはイスラム教徒主体の国だ。イスラム世界を敵視するアメリカの世界戦略の構想が出てきたのは1993年の「文明の衝突」以来のことで、98年は、アメリカが、アフガニスタンのイスラム主義勢力タリバンを味方から敵へと転換した年でもある。当時の駐インドネシア米大使は、のちに国防副長官としてイラク侵攻計画を進めたネオコンのウォルフォウィッツだった。(アンワルはウォルフォウィッツと親しかった)

 マレーシアは、インドネシアの隣国であり、インドネシアと同様、イスラム教徒主体の独裁政治体制の国である。マレーシアも通貨危機の被害を受けたものの、危機対策の舵取りがうまくいき、インドネシアのような惨事にはらなかった。しかし、マハティールは、アメリカがイスラム世界の政権転覆に乗り出したことに気づいていただろうから、いずれ自国もインドネシアのようにアメリカによって政権転覆の標的にされる可能性があると懸念したはずだ。それを防ぐには、UMNOによる一党独裁体制を壊し、アメリカ流の二大政党制、もしくは多党政治体制に転換するしかない。

▼二大政党制にするためアンワルに濡れ衣を?

 マレーシアは、マレー系6割、中国系3割、南インド系1割の多民族国家である。民主政治的にはマレー系が強いが、経済的には企業の約7割(以前は9割以上)を中国系が所有している。こうした複雑な状況なので、マレーシアの政治は独立以来、マレー系が内紛せずに統合し、中国系やインド系とも折り合いをつけた上でマレー系優位の政治を続けることのみを重視してきた。

 以前は、シンガポールもマレーシア連邦の一部だったが、中国系の李光耀(リー・クァンユー)が率いる政党PAPがUMNOの統治に挑戦し、扇動されて民族間抗争の暴動が起きたため、UMNOは1965年にシンガポールを連邦から追放し、シンガポールは独立した。マレーシアにとって、二大政党制や多党制の民主主義は不安定を招くもとであり、容認できなかった。

 しかし、1998年ごろを境にアメリカは、イスラム世界の独裁諸国を潰そうとする傾向を強め、実際にインドネシアが潰され、マレーシアも一党独裁状態を続けにくくなった。当時マレーシアではイスラム主義の政党PASが台頭していたが、アメリカは民主化を求めるくせにイスラム主義の台頭は許さないという、矛盾した要求を持っていた。かといってマレー系と中国系が対立する二大政党制では、民族暴動になり不安定化する。マレーシアとしては、UMNOと中国系、インド系の政党の与党連立(BN)のようなものをもう一つ作ることで、二大政党制に移行させるしかなかった。

 このような状況下で、インドネシアの政権転覆(98年5月)の3カ月後、マハティール自ら音頭をとってアンワルの男色スキャンダルを広める画策を展開し、アンワルをUMNOから追放し、逮捕した。マハティールは、有能な政治家であるアンワルを追放してUMNOの外で別の政党を結成させ、二大政党制を実現する戦略で、アンワルに濡れ衣をかけたのではないかというのが、私の推測である。

 独裁与党を2つに分ける二大政党制は、簡単には実現できない。与党内の人々は、マハティールの巨大な権威に服従してすごしてきたから、マハティールが残った方の政党が強くなる。かといって二大政党化とともにマハティールが引退したら、二大政党制にならず権威なき分裂状態になって失敗する。

 マハティールは、カリスマ性の強い人物であるアンワルをひどい目に遭わせ、冤罪で何年間も投獄することで、アンワルがマハティールやUMNOを憎悪し「絶対にUMNOを潰して与党になってやる」と思う状態に押しやり、そのアンワルの復讐のエネルギーを使ってもう一つの政党を立ち上げさせ、マレーシアを二大政党制に移行しようとしているのではないか。

 マハティールはUMNO内で、追放後のアンワルを中傷するキャンペーンを執拗に展開した。正義感の強い人々は、UMNOに嫌気がさし、アンワルを支持する傾向を強めた。アンワルの人民正義党は、中国系、インド系の政党と連立野党を組んでおり、マレーシアにはすでに二大政党制の原型ができている。

 5月18日にマハティールがUMNOを脱党し、他の党員に脱党を呼びかけたのも「寄らば大樹の陰」の意識が強いマレー系の人々をUMNO脱退の方向に動かし、まだ勢力拡大が今一つのアンワル側を加勢するための策略だったと考えられる。

 イスラム世界には、米英型の二大政党制や、欧州日本型の多党制を無理なく安定的に運営できている国がない。マハティールは、イスラム教徒にも二大政党制が運営できることを、世界に見せたかったのかもしれない。

▼台湾の例

 読者の中には「田中さんの推測は面白いけど、現実はもっと単純なものじゃないの?。マハティールは単に頑固な独裁老人で、身勝手な言動をしているだけだよ」「貴殿は深読みしすぎ」と思う人が多いかもしれない。しかし私から見ると、マレーシアと似た展開をしている国が、アジアには他にもある。李登輝の台湾である。

 台湾(中華民国)の民主化は、アメリカと中国(北京政府)が国交を回復した1970年代から始まった。それまでの台湾は、中国国民党の一党独裁政治で、反体制派は簡単に抹殺されていた。だが、アメリカが中国と国交正常化し、台湾と断交したことにより、台湾は国際社会で孤立し、国家としての先行きが危うくなった。そしてこの危機の中で、当時の台湾の蒋経国政権が採った新戦略が「民主化」だった。

 当時の総統(大統領)だった蒋経国はおそらく、米政界の親台湾勢力と相談し、台湾が民主化すれば、民主主義を重視するアメリカでは、共産党独裁の中国より、民主主義の台湾を好む傾向になり、台湾は巻き返せるかもしれないと判断したのだろう。その後1989年に北京で天安門事件が起こり、民主化要求を弾圧した共産党政権が米欧から制裁されるに至って、蒋経国の判断は正しかったことが証明された。

 蒋経国自身は、戦前から国民党の独裁的党首だった蒋介石の息子であり、この時点の台湾は、北朝鮮のような父子相伝の独裁国だった。しかし蒋経国は、自分の息子ではなく、台湾系(本省人)の李登輝を後継総統に選んだ。台湾の人々は、1949年に内戦に負けて大陸から移転してきた国民党とともに移住してきた外省人(大陸系)が人口の1割で、残りはそれ以前から住んでいた本省人である。台湾の民主化は、李登輝という本省人を総統に指名する「本省化」から始まった。蒋経国は1988年に死去し、李登輝が総統になった。

 しかし本省人の李登輝が総統になっても、国民党が独裁政権であることには代わりがなかった。国民党から政権を奪取しうる他の政党が出てこない限り、民主主義ではなかった。蒋経国時代から、台湾には民主化を求める弁護士や文化人らの集まりがあり「党外人士」(国民党外の人々)と呼ばれていた。彼らは86年に民主進歩党(民進党)の結成を政府から黙認され、民進党はその後勢力を伸ばした。1996年には、国民党(李登輝)と民進党(彭明敏)らの間で初めて公選制の総統選挙が行われ、李登輝が再選された。

 次の2000年の総統選挙で李登輝は、それまで副総統だった連戦に総裁候補を譲り、自分は民進党を隠然と応援した。李登輝は党首だったので表向き国民党を応援したものの、民進党を有利にするような発言を繰り返し、台湾の人々は「李登輝は本省人だから、本音では民進党を応援したいのだ」と考えた。この選挙では、民進党の陳水扁が勝ち、初めて選挙による政権交代が実現した。

 00年の総統選挙後、国民党内では李登輝に対する非難が起こり、李登輝は同年末に国民党から除名された。李登輝は民進党への支持を強めるとともに、翌01年夏、台湾独立を強く求める新政党「台湾団結連盟」を組織し、民進党と連携した。団結連盟は、李登輝を精神的指導者に擁し、連盟のすべての候補者は李登輝の許可を得てから立候補していたが、李登輝自身は連盟の党員にならず、いつでも逃げ出せるようにしていた。連盟は台湾独立を強く求めすぎて有権者の支持を失い、05年以降の選挙ですべての議席を失った。(関連記事

▼民進党支持から国民党支持に戻った李登輝

 李登輝は、自ら隠然と民進党を支援しただけでなく、かつて国民党内の部下だった宋楚瑜を動かし、国民党を分裂させる策動も展開した。党内で人気ある政治家だった宋楚瑜は、李登輝から邪険にされ続けたため、国民党から分派して親民党を結成した。2000年の総統選挙は、国民党、親民党、民進党の三つどもえになり、もともとの国民党の票は、国民党と親民党に分割されてしまい、民進党に漁夫の利の勝利を与えた。

 李登輝は2004年の総統選挙でも民進党の陳水扁の再選を支援したが、その後、今年3月の総統選挙にかけて、民進党を批判する側に転向した。李登輝は、昨年から再三にわたって陳水扁や民進党の台湾独立路線を批判し、昨年2月には「私は台湾独立を支援したことはない」とまで発言した(実際には李登輝は「台湾独立運動の父」と呼ばれてきた)。(関連記事

 昨年夏には、国民党の総統候補になる馬英九が、一緒に組む副総統候補を蕭萬長にすることを条件に、李登輝は馬英九を支持することにしたと報じられた。蕭萬長は本省人で、李登輝が1988年に総統になったとき、若手の経済閣僚として抜擢した。(蕭萬長より12歳若い外省人の馬英九も、1990年代に李登輝に抜擢されて初入閣した)(関連記事

 今年3月の選挙で、馬英九が、民進党の謝長廷を破って勝利し、政権が再び国民党の手に戻ることが決まった後、李登輝は、要請を受けて馬英九新政権の政策顧問に就任することになった。馬英九は5月20日、総統に就任した。

 2000年から民進党を支援していた李登輝は、08年の選挙が近づくと民進党批判に転じ、国民党が勝つとその政策顧問になった。この変節は何を意味するのか。「国民党が中国に接近しすぎるのを抑制するつもりだろう。李登輝は台湾独立の夢を捨てていないはずだ」といった見方もできる。李登輝が好きで中国が嫌いな多くの日本人は、そう思いたいだろう。

 しかし、李登輝が国民党の政策を抑制するつもりなら、以前から李登輝を知っている馬英九はそれを察知でき、李登輝に顧問役を頼まないだろう。李登輝は国民党政権を支援してくれそうだからこそ、馬英九は李登輝に顧問をお願いしたのだと考えられる。(関連記事

 とすれば、李登輝の長年の目標は、台湾独立を宣言することよりむしろ、台湾に国民党と民進党の二大政党制を実現し、米欧に好まれる民主主義を確立することで、台湾の国家としての存続を可能にすることだったと思える。一度は民進党を支援して政権を取らせ、その後国民党に政権が戻ったことで、今後は両党とも政権を運営できる経験と力量を持つことになった。李登輝の努力が実り、台湾は二大政党制を実現した。

▼民主主義にも秘密はつきもの

 マレーシアは、アメリカが独裁的なイスラム諸国の政権を転覆する戦略を始めたことへの対策として、マハティールが10年画策した結果、UMNOと人民正義党の二大政党制になりつつある。台湾は、アメリカが中国との国交を正常化して見捨てられたため、国家的な生き残りのために李登輝が10年画策した結果、国民党と民進党の二大政党制ができあがった。これが、マハティールと李登輝という2人の国父の動きをめぐる、私の裏読みである。

 マハティールも李登輝も、家父長的な一党独裁の政党の最高権力を握る「国父」だった。彼らは、権力を握っているがゆえに、アメリカの意志を察知し、自国が二大政党制に移行する必要があると感じたのだろう。だが、それを実現するには、マレーシアの場合は優秀な後継者だったアンワルを追放して徹底的に虐めて党外で立ち上がらせることが必要で、台湾の場合は「党外人士」たちが作った民進党を李登輝が支援強化することが必要だった。

 マハティールや李登輝は、自らの戦略をこっそり進める必要があった。アメリカは明言せずに世界戦略を展開している部分が大きく(ブッシュ政権が単独覇権主義を明言したのは、単独覇権主義を失敗させるためであり、戦略が明言された場合は裏読みが必要だ)、マレーシアも台湾も、国民の同意を得ながら政治体制を変えることは不可能だった。国内的に見ても、国父の権威は、国父自身が権威を外そうと思っても、簡単に外れるものではない。

 政治とは古今東西、最重要の部分が、一般の人々からは見えないようになっている。人々に見えてしまうと、うまく機能しない。「民主主義なのだから、一般有権者がすべて知ることができることが必要だ」というのは、与党批判で人気を取りたい野党的な、非現実的な考えだ。

 もともと民主主義とは、人々を「国家に貢献したい」と思わせ、進んで兵役や納税してもらうことで、人々を強制して兵役や納税に駆り立てていた非民主的な体制よりもずっと強い国家を作れるため、フランス革命以後、欧州の権力者たちが便利だと思って採用した制度である。フランス革命によって最初の民主国家となったフランスの軍隊は欧州で圧倒的に最強となり、元首のナポレオンが全欧制服を企てたほどだった。

▼二大政党制は「二党独裁」

 マレーシアや台湾が二大政党制を導入できるのなら、中国も共産党独裁から二大政党制に移行でき、アメリカから「一党独裁だから転覆してやる」と言われずにすむのではないか、という考察が成り立つ。問題は、台湾やマレーシアに比べ、中国は広大で多様性が強いので政治安定性が低く、共産党が思い切り一党独裁をやっても、まだ完全に安定的な体制になっているとはいえない点だ。しかし大国として国際認知されるためには、中国もいずれ、民主的な感じのする政治体制に転換していく必要がある。

 また、もう一つ考えるべきこととして、二大政党制は良い政治体制なのか、という問題がある。マレーシアや台湾が二大政党制を導入した理由は、両国の国運を左右する覇権国であるアメリカが二大政党制だったからにすぎない。アメリカの二大政党制の現状は、理想的な民主主義から非常に遠く、機能不全に陥っている。

 今のアメリカに必要なことは、イラクからの早期撤退、イスラエルに牛耳られている状態からの脱出、壊れている健康保険制度の整備、貧富格差の是正、財政再建などであるが、これらの多く、特に外交政策について、二大政党はいずれも問題を悪化させる方向の政策しか打ち出していない。米政界を支配しようとする勢力は、2つの政党だけをおさえれば良いので二大政党制は都合がよい。アメリカの二大政党制は1860年代に始まったが、1890年代からは資本家、1930年代からは軍産複合体やイギリス、1970年代からはイスラエルに牛耳られている。

 二大政党制は2党の談合ですべてを決められる「2党独裁」である。フランス革命後、国を強くするために民主主義を導入する必要に迫られたイギリスは、王室や貴族の支配を温存したまま民主主義のかたちを取り、その後、二大政党制を発明した。日本でも二大政党制への移行が模索されているが、無理して二大政党制にしない方がよい。多党制の方が自然である。



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