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クリントン元大統領訪朝の意味

2009年8月5日   田中 宇

 8月4日、米国のビル・クリントン元大統領が北朝鮮の平壌を訪問し、金正日総書記と夕食をともにして、北朝鮮に不正入国した罪で捕まっている2人の米国人ジャーナリストを恩赦にしてもらい、翌5日、クリントンは2人を連れて米国への帰国の途についた。

 この電撃訪問でわかったことの一つは、瀕死とも言われた金正日が、かなり元気であるということだ。クリントンの訪朝については、北朝鮮の通信社が数枚の写真を配信している。写っている金正日は、立って歩き、自ら采配して米側と交渉している。金正日は昨秋、何らかの病気で倒れた後、余命幾ばくもないとの報道が流れ続けてきた。写真で見る今の金正日は、倒れる前よりかなりやせているが、報道によるとクリントンと8月4日の夕食をともにしており、健常者と同様の生活ができる状態であることがうかがえる。何らかの治療を受けている可能性はあるが、膵臓癌で余命わずかの状態には見えない。 (Video: Journalists Freed in N. Korea) (Bill Clinton meets with Kim Jong Il

 前列に金正日とクリントンが座り、後列には米側の同行者の全員とおぼしき6人(うち一人はクリントン政権の大統領主席補佐官で、オバマの選挙参謀として新政権人事も決めたジョン・ポデスタ John Podesta。残りの人定は不明。通訳の女性、クリントンの側近、警護官3人というところか)が立っている写真も配信されている。これはおそらく、金正日が、クリントンの同行者全員に写真に入るように求めたので、世界に配信される写真に正面から写ることを嫌う米軍特殊部隊出身の警護官ら米側の裏方の人々まで写ってしまったのだろう。金正日が以前と同様、外交の接客を自分で仕切っていることが感じられる。 (photo released by Korean Central News Agency

 北朝鮮の通信社は、クリントンの専用機が平壌空港に到着し、クリントンらが飛行機から降りて北朝鮮の金桂冠外務次官らの歓迎を受ける光景の動画と、帰りに再び平壌空港でクリントンと釈放された2人の女性記者たちが専用機に乗り込む動画も配信されている。 (Clinton, Journalists Depart

 金桂冠は、ブッシュ政権時代に北核問題6カ国協議の北朝鮮代表をつとめていたが、ここ数カ月、全く姿をあらわさなかったため、韓国では「金桂冠は米国に譲歩したとみなされて北朝鮮政権内の強硬派によって粛清され、強制収容所に送られたに違いない」と推測されていた。しかし実際には、彼の地位は外務次官のまま変わらず、単に数カ月公式の場に登場しなかっただけだった。 (Pyongyang purges for a new era

 日韓米で流れる北朝鮮情報の中には無根拠なものが多いが、その中で「金正日は瀕死だ」「金桂冠は粛清された」といった、負の方向の情報だけが「事実」として大々的に報道され、後で間違いとわかっても訂正されないプロパガンダの状態になっている。飢餓や国家崩壊の可能性を含め、北朝鮮に関する報道は鵜呑みにしない方が良い。

(日本では、金正日は以前から影武者が演じているという説が存在するが、この説が本当だとしたら、影武者はクリントンや、以前に訪朝した米元高官らとの交渉をうまくこなし、影武者でも問題なく国家運営ができていることになる。日本の首相も、北の影武者にやってもらった方がいいぐらいだ。真贋にかかわらず、金正日として出てくる人物は外交能力が高いのだから、影武者かどうかは大した問題ではない)

 今回、北朝鮮側から動画として配信されたのは、行きと帰りの平壌空港のものだけで、クリントンと金正日が会っている光景は写真(静止画像)のみで、動画はない。このことからは、金正日が動画に写ると困る理由があるとも推察できる。金正日は、昨秋に倒れた後遺症で、身体のどこか(左腕など)が麻痺している可能性はある。

▼訪朝は米政府ぐるみの戦略

 北朝鮮側は、クリントンはオバマ大統領からのメッセージを口頭で金正日に伝えたと報じている。米政府は、メッセージなど出していないと否定し、クリントンは個人の資格で勝手に訪朝したんだと米政府は言っている。どちらが正しいのか。おそらく、北朝鮮の側である。 (Surprise mission by Bill Clinton to Kim Jong-il

 公式には、クリントン訪朝は米政府と関係ないことになっているが、実際には、クリントン訪朝前の7月末、クリントンの妻であるヒラリー・クリントン国務長官が、今回の夫の訪朝を可能にする軌道修正の発言を行っている。

 クリントンが今回、金正日に頼んで恩赦・釈放してもらった2人の米国人ジャーナリストは、今年3月、中国国境から北朝鮮側の村に無許可で入国して取材していたところを捕まったが、米国務省はそれまで一貫して「2人に落ち度はない。北朝鮮が2人を逮捕したのは不当だ」と言っていた。だがヒラリー国務長官は7月末「どうやら2人は不正に入国したことを認め、不正入国を後悔しているようだ。わが国としても(米国民による不正入国は)遺憾なことだと思っている」と、2人の方が罪を犯し、北朝鮮側が2人を逮捕したことは間違っていないという態度に転換した。 (North Korea sees an opening

 このヒラリーの方向転換によって北側は面子が立ち「悪いのは2人の記者だが、それを米国側の要請に基づいて金正日が恩赦し、夫のビルが2人を引き取るために訪朝する」というクリントン夫妻による2人芝居的な展開が可能になった。

 この件が事前に軍産複合体の側(米政界タカ派、日韓政府など)に知れると妨害されかねないので、ヒラリーは7月末、北朝鮮側との間で中傷非難の応酬をして煙幕を張った。ヒラリーは金正日を「周囲の気を引くために暴れてみせる悪ガキのようだ」と酷評し、北朝鮮外務省は「(ヒラリーは)全く知的ではない。彼女は、ある時は小学生の女の子のようにしか見えないし、別の時には老婆のようにしか見えない」とこき下ろした。しかし、この時にはすでに、裏でビル訪朝の話がほとんど決まっていた。 (Rhetoric Between Clinton, North Korea Descends to Name-Calling

 こうした事前の展開からうかがえるのは、今回のビル訪朝は米政府ぐるみの事業であり、オバマ大統領はビル・クリントンに何らかのメッセージを託したと考えるのが自然だ。

▼北を6カ国協議に引き戻したい米国

 オバマが金正日にメッセージを伝えたとしたら、その内容はどんなものか。ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)の記事は、平壌空港でクリントンを出迎えたのが、北核問題6カ国協議の北朝鮮代表を長くつとめてきた金桂冠だったことから考えて、米朝は今回のクリントン訪朝で、記者2人の釈放問題と、北核問題を抱き合わせにして交渉したのではないかと推測している。WSJは「米国は、日本が拉致問題と核問題を関連づけて北と交渉しようとした際には、話を混同するなと日本を叱ったくせに、今回の自国の記者釈放の交渉では、北核問題と関連づけてしまうという無節操なことをやっている」という意味のことを書いている。 (Mr. Clinton Goes to Pyongyang - Freeing journalists, but at what cost?

 オバマ政権は就任から半年が過ぎたが、北朝鮮に対してはまだほとんど何もやっていない。だがオバマ政権は、イランに対して前政権の敵対策を宥和策に替え、中国に対しても「米中G2」など戦略関係を強化して従来の中国包囲網から転換している。ロシアにも、アフガンへの補給路確保や核廃絶の理想を口実に、宥和策を強化している。オバマは、キューバやベネズエラとも話し合う姿勢を見せている。つまりオバマは、前ブッシュ政権や冷戦期の米国が敵視していた世界中の諸国に対し、米国が譲歩する宥和を展開し、国際政治を多極的な新秩序へと転換していこうとしている。

 こうした動きの中で、オバマ政権が北朝鮮に対してだけ宥和策に転じないと考えるのは無理がある。前ブッシュ政権は、北を核廃棄させることを6カ国協議によって実現したら、6カ国協議の体制をそのまま生かし、極東関係6カ国の恒久的な集団安全保障の新体制へと発展させようとしてきた。中露に対して宥和的なオバマ政権は、ブッシュの極東戦略を継承していると推測できる。

 オバマがクリントンを通じて金正日にメッセージを伝えたとしたら、その中身は「北朝鮮が6カ国協議に戻って核兵器を廃棄したら、その見返りに米国は北朝鮮が喜ぶ何かをしてあげる」という交換条件の形をとって、今は北が参加を拒否している6カ国協議の再生と、北に対する譲歩を通じた東アジアにおける多極化の進展を目論む方向のものであろう。ロシアと中国は7月初めの外相会談後に「朝鮮半島の核問題の解決は6カ国協議でやるしかない。他の方法はない」と声明を出している。 (Calm urged after latest North Korean move

 クリントン自身、大統領だった任期末の2000年秋には、オルブライト国務長官を平壌に訪問させ、米朝国交正常化まであと一歩のところまで話を進めている(その後、後任のブッシュが話を壊した)。クリントンは当時、朝鮮半島周辺の今後の国際政治の長期的で大きな枠組み(グランドデザイン)を考えていたはずだ。今回、オバマから託されたメッセージを含め、クリントンが金正日と対話した内容の中心は、今後の朝鮮半島をどうするか、そこに米国がどう関与するかといった長期的で巨大な枠組みの話だったと思われる。

▼北核廃棄の見返りに太平洋米軍の核を全撤去?

 このような前提で考えた場合、北朝鮮は、6カ国協議に再参加して核廃棄を進める見返りに、米国に何を求めるだろうか。私が見るところ、北の要求は3つある。1、韓国からの米軍撤退。2、米朝国交正常化。3、アジア太平洋地域にある米軍の核兵器の撤去。この3点である。いずれも、戦後のアジア太平洋の国際政治体制の根幹を変更する話であり、日本の国是にも大きな影響を与える。従来の価値観からすると「米国がそんなことを了承するはずがない」となるが、国際政治は今、価値観の大転換期に入っている。従来の価値観は、むしろ現実を見えなくする。

 韓国からの米軍撤退は、在韓米軍が持っていた有事指揮権を2012年に韓国軍に委譲する予定で、米軍はすでに出ていく方向にある。北が核廃絶し(北が核の一部を隠し持ったとしても米国は大目に見る)、在韓米軍が撤退を開始すれば、米朝は朝鮮戦争を正式に終わらせ、米朝国交を正常化できる。

 3番目の「北が核廃棄する代わりに、米国はアジア太平洋の米軍の核兵器を全撤去する」という話は、それ自体だけを見ると、とんでもなく非対称だ。だが、先に米露で交渉を開始した米露中心の世界的な核軍縮の流れの中で見ると、オバマ政権はすでに世界的に米軍の核兵器を廃絶していく方向性を打ち出していることがわかる。 (オバマの核軍縮

 米国が核廃絶に向かい、日本に対する「核の傘」が失われかねないので、日本では麻生首相らが「北が核廃棄しないなら、日本も核武装を検討せざるを得ない」という趣旨の発言をしたり、元外務次官が1960年代に核兵器搭載の米軍艦が日本に寄港できるようにする日米の秘密協定が結ばれていたと既成事実を暴露したりする展開が起きている。

 このように考えると、今回のクリントン訪朝では、2人の記者を釈放させる件はむしろ口実で、訪朝の本質的な意味は、6カ国協議に出ないと言っている金正日に考え直してもらう説得工作である。米国の戦略は、6カ国協議を再開し、東アジアの多極化への政治体質の転換を進めることだと考えられる。北朝鮮をめぐる外交交渉の今後の展開が注目される。

 このような中にあって、日本は無策のまま取り残されている。おそらくクリントン訪中も、日本は事前に知らされていなかっただろう(クリントンは大統領時代、日本に寄らずに中国を訪問する「ジャパン・パッシング」をやった人だ)。

 今月末の総選挙で日本の政権が民主党に替わる可能性が大きいが、民主党は最近、米国を最重要の同盟国とみなしつつも、対米従属的な外交姿勢を脱却していく方向性を表明している。日本の世論はかなり米国に愛想を尽かし、マスコミは報じないが日本人はドル崩壊の懸念も感じているようだ。民主党は、そうした日本の世論に合わせただけかもしれないが、今後の日本は、世界の多極化とともに対米従属から脱し、中露や北朝鮮と協調して東アジアの新世界秩序を受け入れる必要があるのは確かであり、この点も今後の展開が興味深い。



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