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ドル崩壊の夏(3)

2009年8月22日   田中 宇

 最近、著名な経済専門家が相次いで「ドル崩壊」の予測を発した。投資家のウォーレン・バフェットは8月18日のニューヨーク・タイムスの解説欄に投稿記事("The Greenback Effect")を載せ、ドルの過剰発行がインフレを招くことを警告した。バフェットは「連銀によるドルの過剰発行は金融危機対策として仕方がなかったのかもしれないが、過剰発行の副作用は潜在的に拡大している」「今後、米経済が回復し始める前に、米議会が財政赤字の拡大(米国債増発)を止めねばならない。さもないと、中国などが米国債を買わなくなって金利が急騰したり、ドル過剰発行の反動が出てインフレがひどくなる」という趣旨を書いている。 (The Greenback Effect By WARREN E. BUFFETT

 8月19日には、最大手の債券投資ファンドである米国のピムコ(Pacific Investment Management Co.)の投資責任者が、ドルは連銀による過剰発行の結果、世界の備蓄通貨の地位を失いつつあり、ドルは新興市場諸国の通貨に対して値を下げて行くとの予測を発表した。そして「ドルが強いうちに(ドルを売って他の通貨を買い)投資先通貨を分散させておくのがよい」と投資家に勧めている。 (Pimco Says dollar to Weaken as Reserve Status Erodes

 8月21日には、ノーベル賞受賞経済学者であるジョセフ・スティグリッツも、バンコクでの講演で「ドルが持つリスクが高まっており、国際備蓄通貨として適切でなくなっているため、中国などと協力して、ドルに代わる国際備蓄通貨の新制度を設立する必要がある」という意味のことを述べた。 (Stiglitz Sees Risk to dollar, Need for Reserve System

 連銀による過剰発行が金利上昇やインフレというドル崩壊を引き起こすとの予測は、以前からあちこちで発せられてきたが、今回、著名な3者が相次いで明確にそれを指摘するという事態は、ドル崩壊が実際に起きる時期が近づいてきたことを感じさせる。 (◆ドル崩壊の夏(2)

 雑誌フォーブスのサイトは8月11日付けで「ジンバブエ化に直面する米連銀」(Fed Faces Its Zimbabwe Moment)という記事を載せた。ジンバブエ化とは、連銀が金融救済や米国債買い取りのためにドルを過剰発行した挙げ句、通貨の価値が100万分の1に下がったアフリカのジンバブエのような超インフレを引き起こす懸念を指す。米国とジンバブエを同列に並べるところにユーモアのセンスを感じる。連銀がジンバブエ化を防ぐには、米国債買い取りをやめる必要があるが、連銀が買い取らなくなったら米国債は売れ残って長期金利の急騰と財政破綻が顕在化するので、国際買い取りは簡単にやめられない。米国は、超インフレと金利上昇の板挟みになっていると、記事は示唆している。 (Fed Faces Its Zimbabwe Moment

▼加速する中国のドル離れ

 最近の金融市場で実際に起きていることとして、ドル崩壊への道を感じさせるものの一つは、中国が米国債を買わなくなったことである。8月18日に米財務省が発表した今年6月の米国債販売の統計では、米国外からの米国債購入は、全体として5月の194億ドルから907億ドルに急増したものの、中国やロシアといった非米的な新興諸国が買いを減らした半面、日本や英国などの対米同盟から逃れられない国々が買い増した。中国は、米国債保有総額を8000億ドルから7700億ドルへと減らし、リスクが高い長期債を売って短期債を買う傾向を強めた。 (China cut holdings of US treasury bonds in June

 今後、冒頭の3者が予測するようなドル崩壊が顕在化し、米国債の売れ行きが落ちていくと、米国との同盟関係を切れない日英は、紙くずと化す米国債を抱えて破綻する「負け組」、ドル離れの準備をした中露などBRICは「勝ち組」となり、英米中心主義が多極主義に取って代わられる国際政治の現象と同期する。

 FT紙のウェブログには「6月に英国が買った米国債の中には、中国がロンドンの業者を通じて買った米国債が含まれており、実は中国は米国債を買い増している」との指摘が載った。これが事実なら、中国は、相場下落を引き起こすので米国債を売りたくても売れない「ドルの罠」にはまっているとする従前のFT紙などの指摘が正しいことになる。だが、中国当局は今春以来、何度も「ドルはいずれ崩壊するので、別の国際備蓄通貨体制が必要だ」と表明し、今回も、中国の米国債保有が減少したとの米政府の発表を、中国のマスコミは歓迎の論調で報じている。中国がドルの罠に捕らわれたままであるとは考えにくい。 (China's Treasury confidential

 私はむしろ「中国は裏で米国債を買っている」という指摘は、政治面での「上海協力機構は大したことない」という「解説」と同様、覇権が多極化していくことを人々に見せないようにして対抗策をとらせず、いずれ起きる覇権転換を不可逆的なものにするための、隠れ多極主義者のめくらましではないかと感じる。 (China to trim US treasury holdings, diversify Forex reserves

 中国は、かなり急いでドル離れを進めている。中国の政府系ニッケル鉱山会社(Jilin Jien)は8月中旬、カナダのニッケル鉱山会社(Canadian Royalties Inc.)に対して、敵対的な買収工作を仕掛けていると報じられた。中国政府系の企業群は従来から、ドルを現物商品に替えるドル離れ策の一環として、世界各地の鉱山や油田などの利権を積極的に買収してきたが、買収はすべて友好的で、相手方の企業や政府が反対した場合には引き下がっていた。敵対的買収は今回が初めてで、それだけ中国が急いでいることがうかがえる。 (China makes unexpected grab for Canadian miner

▼商業不動産市場の悪化

 実体経済での動きとして、ドル崩壊への道となりそうなもう一つのものは、米国での商業不動産市場(ビルなど)の悪化である。米国の商業不動産の総価値は3・5兆ドルで、これは2年前の最高値から39%の下落を経験した末の価格である。この下落幅は、80年代に米国のS&L(信用組合)が多数倒産したバブル崩壊時の下落率27%よりも大きい。今年3-6月期は18%の下落で、下落幅が加速している。総額3・5兆ドルのうち2兆ドル分の不動産は、取得時の価格より今の価格が安く、この損失分は融資した米銀行の不良債権となっている。 (Second Wave Of The Credit Crisis: Collapsing Commercial Real Estate

 米国の商業不動産事業の中でも、ホテル業では「夜逃げ」が相次いでいる。不況でホテルの宿泊者が減り、しかも不動産下落で借入金が担保不足になるホテルが増えている。米国の不動産担保融資は、債務者が担保の物件を放棄して債権者に明け渡せば債務返済を免れる制度になっており、立ちゆかなくなったホテル経営者は、従業員を解雇し、ホテルのカギを銀行に郵送して債務関係を清算した後、夜逃げする。賃貸ビルの場合、テナントとの契約は長期なので、ビル所有者は突然の廃業ができないが、ホテルは従業員を解雇して宿泊予約を断れば、即日廃業できる。 (Hotels Deliver Some 'Jingle Mail'

 債権者の銀行は、債務者のホテル側と融資条件の再交渉をして金利減免などしてホテル経営を続けてもらいたいが、債権はすでに他の何十、何百件かの債権と束ねられて債券化して転売流通しており、ホテルに最初に金を貸した銀行の一存で融資条件を変えられない。一昨年のサブプライム・ローン危機の時にも問題になった、債券化にともなう解決不能な「ハンバーグ」的な複雑化が起きている。 (広がる信用崩壊

 米国では商業不動産と並んで、住宅不動産の下落も続いている。6月末の時点で、全米のローン返済の延滞率は13%を超え、ローンの8分の1は返済が滞っている。従来のローン滞納の主流は、サブプライムなど、債務者の返済能力以上の融資をしてしまった構造的欠陥を抱えるローンだったが、最近では債務者が失業または減給となって返せなくなる通常型のローン滞納が主流となり、米国の住宅ローン危機は悪化の新段階に入ったと指摘されている。 (Mounting joblessness fuels US housing crisis

 このような不動産市況の悪化を受け、米国の銀行では不良債権が増えている。米国の上場銀行のうち150行が、債権全体に占める不良債権の率が5%を上回っている。不良化率が5%を上回ると、債務超過(資本金を全部使っても不良債権を償却できない事実上の経営破綻)に陥っているとみなされる。 (Toxic Loans Topping 5% May Push 150 Banks to Point of No Return

 不動産市況の悪化とともに、不良債権率は高まり、格付け会社のフィッチによると、7月に3%だった商業不動産担保融資の貸し倒れ率は、今年末には5%を超えると予測されている。フィッチは、米銀行の大手20行のうち約半分が、今後経営状態が悪化すると予測している。 (Fitch Announces Expanded Review of U.S. Bank Commercial Real Estate Exposure

 住宅市況が今後も悪化すると予測され、ファニーメイなど米国の住宅金融公社3社が発行する債券も売れ行きが悪いため、連銀は最近入札された新規発行の公社債券の約半分を買い取った。連銀のドル増刷による売れ残り債券の買い取りがなければ、住宅市場の金回りは悪化し、不動産下落に拍車をかける。今や米国は不動産市場も連銀頼みであるが、連銀はドル増刷を続けるほどジンバブエ化の瞬間が近づく。 (Fed buys record $5.6 billion in agency debt

▼失業増、消費不振なのに金融だけ改善

 統計的には10%だが米国民の実感は20%といわれる失業率上昇の影響で、米国では消費も不振が続いている。米経済に占める消費の割合は、2年ほど前まで65%といわれていたが、製造業などの衰退が進んだ結果、今では70%に増えており、消費が不振な限り、経済発展もおぼつかない構図になっている。米国の消費は、来年後半にならないと復活しないと予測されている。 (Reluctant Shoppers Hold Back Recovery

 こんな状態なのに、連銀のバーナンキ議長は8月21日、間もなく経済成長が復活する見通しが強いと表明した。バーナンキ発言を受け、株価も上昇した。しかしバーナンキが景気回復の兆候として列挙したものは、社債やジャンク債市場、短期資金の貸出市場といった金融市場が復活していることだ。 (Fed Chairman Says American Economy Is Poised to Grow

 金融市場の回復は、連銀が市場に巨額資金を供給する量的緩和策の効果である。連銀の資金流入によって、リーマン破綻前の「上げ底」的な高レバレッジの状態がやや戻った。失業が増え、消費も不振なのに、連銀が金融市場に巨額資金を流し込んでいるため、金融だけ少し活況になっている。加えて、米政府の8000億ドルの財政出動による景気対策の効果があり、それらをバーナンキは経済の回復兆候と呼んでいる。

 連銀の量的緩和策はジンバブエ化につながるドルの過剰発行であり、近いうちにやめねばならない。米政府の景気対策も、財政赤字を急増させるので、追加出動は難しい。そして、米当局のこれらの下支え策がなくなれば、おそらく米経済は再び不況感が増す。米経済が活気を取り戻しているように見えるのは、米当局がドルの信用を磨耗させることと引き替えに、一時的に作り出した小康状態にすぎない。 (Take Away Stimulus Spending and You've Got an Economy Entering Depression

 米国では株価も上がってきたが、米国内外の大手の年金基金は、上昇をしり目に、米国株を売る傾向を強めている。また、米国の企業経営者も、いずれ下がるので高値の今のうちに売っておけとばかり、自社株売りを続けている。自社株売りの加速は今春以来のことで、流れは依然として続いている。これらを見ると、どうも株価の上昇も、米当局が注入した資金が株式市場に回って株価が上がる仕掛けが作られているだけで、長続きしないと感じられる。 (Pension Funds Pare Stocks, Ignoring Economic Rebound) (Why are company insiders selling?) (◆国際金融危機の再燃が近い?

▼英国も破綻へ

 財政赤字の急増と、量的緩和策による通貨の過剰発行によって破綻が近づいている構図は、米国だけでなく、英国でも同じだ。英国はプロパガンダ戦略の元祖であるだけに、経済破綻の接近があまり報じられていない。だが英国は、米国と同じデリバティブ型の金融システムを持ち、米国と同じ金融危機を抱えている。英国は、経済規模が米国より小さく、ポンドもドルと違って基軸通貨ではないため、米国より先に、劇的な破綻が来ると予測される。 (Cameron Says U.K. Running the Risk of Debt Default

 英国は史上最悪の財政赤字の急増となっており、英国債の売れ行きが悪化して金利が上昇するのを防ぐため、英中銀がポンドを増刷して売れ残りの英国債を買っている。英金融界は、この英中銀の量的緩和策を危険視しているが、英中銀は「来年になったら、英政府が資金調達するのは難しくなるので、今のうちにやっておいた方が良い」と考えている。つまり英中銀自身、来年までに英国は財政破綻するので、その前にポンド増刷で資金調達しておこうと考えている。 (Mervyn King wanted to buy half of the UK2 government debt market

 今年初めの記事で「英国は年末までに財政破綻する」という予測が米欧分析者の間に存在することを紹介したが、事態は、その予測が現実化する方向に進んでいる。世界は、米英が財政破綻に向かう一方、BRICや途上国がドル崩壊後への準備を加速する事態になっており、私が今年初めに出版した「世界がドルを棄てた日」などに書いた分析に沿った展開ともなっている。 (イギリスの崩壊

 世界がドル崩壊と覇権多極化に向かっていることが、しだいにはっきりと感じられるようになってくる中で、日本の政界でも、この流れに対応する動きが出てきた。その一つは、民主党の鳩山党首が最近発表した論文「私の政治哲学」の中で「ドル基軸通貨体制の永続性への懸念」「世界はアメリカ一極支配の時代から多極化の時代に向かうだろう」と書いていることだ。鳩山は「日米安保体制は、今後も日本外交の基軸」と言いつつ「友愛が導くもう一つの国家目標は東アジア共同体の創造」と述べ、中国脅威論とまぶしつつも「地域的な通貨統合、アジア共通通貨の実現を目標としておくべき」と書いている。 (「私の政治哲学」 鳩山由紀夫

 最近の日本では、民主党以外のところでも、多極化やドルへの懸念が語られるようになった。しかし、それらの多くは鳩山論文と似て「ドルは20年以内に地位が低下する」「米国の覇権は簡単には揺るがない」といった悠長な認識で、日本が急いで対処すべき件として扱われていない。日本では近年、対米従属の国是維持のため、国民が米国に対して懸念や反感を抱かないようにする世論形成策が強化され、マスコミは米国が抱える危機について表層的にしか報じない傾向が強い。そのため日本における米国分析は薄弱になっている。世界の覇権構造が完全に変化するまで、この傾向は続くと予測される。



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