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格下げされても減価しない米国債

2011年8月13日   田中 宇

 8月5日にS&Pが米国債を格下げした。常識的に考えると、その後、米国債の価値が下がり、米国債金利が上昇するのが自然だ。しかし実際のところ、米国債の金利は格下げ後も上がっていない。それどころか、株価の下落を嫌気した投資家が、株式市場から米国債市場に資金を移した結果、米国債の価値が急上昇し、米国債を代表する10年ものの金利は史上最低に近い2・1%台まで下がっている。金融市場では、08年のリーマンショック以来の規模で、株式投信から逃避した資金が、米国の短期の国債や公社債で運用するMMFに流入している。 (Risk aversion turns retreat to `stampede'

 米国企業のうち、エクソンモービル、ジョンソン&ジョンソン、マイクロソフト、ADPの4社だけが、S&PとムーディーズのトリプルA格を持っている。4社は、ダブルA+の米国債より高い格付けなのだから、社債の利回りが米国債より低くなるのが自然だ。だが、4社の社債の利回りは、米国債が格下げされて1週間たっても、米国債より高いままになっている。今年4月の時点で、4社の社債は、同条件の米国債に比べて0・58%高かった。今では、米国債が格下げされたにもかかわらず逆に金利差が拡大し、0・81%となっている。 (Investors Can't Find Clarity With AAA Company Yields More Than Treasuries

 なぜ米国債は、格下げされても価値が下がらないのか。私の見方は、投資銀行など米金融界が、傘下のヘッジファンドなどに、株式市場から資金を抜いて米国債に流入させ、株式の下落を引き起こすことで、他の一般投資家も米国債に資金を移さざるを得ない状況を作ったのでないかということだ。

 米金融界では「米国債を格下げしたS&Pの分析の方が間違っていた。だから市場は、格下げを無視して米国債を買い続け、国債金利が下がっている。基軸通貨としてのドルの地位は低下していない」という説明が散見される。S&Pが米国債を格下げしたのは、リーマンショック以降、米政府が財政赤字を急増させて米国の景気と金融界を救済しようとしたが、景気は改善せず、金融界の改革(債券金融バブルの縮小)も進まないまま、財政赤字の急増だけが続いているからだ。これについて米金融界では「ドルは基軸通貨なのだから、ドルを増刷して米国債の元利償還に当て続ければ問題ない」という見方がある。投資家はそれを知っているので、米国債が買われ続けているというわけだ。

 この考え方は、米金融界が何の策略もしていない前提に立っており、その点が私には疑問だ。S&Pに格下げされた後、米国債の金利は全く上昇傾向を見せず、株価の暴落だけが怒涛のように発生した。一般の投資家が自然な投資行動をしたならば、株と同時に米国債の価値も下がるはずだが、それは全く起きていない。この不自然さがあったがゆえに、私には、米金融界が債券市場の大黒柱である米国債市場を守るために株価の暴落を引き起こしたように思える。

「米政府が財政緊縮を行うので、米経済の規模が縮小し、デフレになる。デフレのときに国債金利が下がるのは当然だ。何の不思議もない」という指摘もある。しかし、米政府が大規模な財政緊縮を本当に行うのかどうか、まだわからない。議会とオバマは2・5兆ドルの財政緊縮を決めたが、そのうちの1・5兆ドルはまだ何をどう削るか決まっておらず、最終的に本当に緊縮される「真水」の部分がどのくらいになるかわからない。近年の米政界の財政削減策の多くは、真水の少ない、政治的なごまかしの多いものだ。今回は違うとは誰も言えない。本当に緊縮される財政が少ないのならデフレにならない。 (Why are Treasury prices rising after the S&P downgrade?

 理由はどうあれ、現実は、格下げされても米国債の価値は下がらず、トリプルAの社債より高い価値が維持されている。8月5日のS&Pの米国債格下げ前後に、248億ドルに達していたドルの先物売りの規模は、その後の約1週間で116億ドルに半減した。ドルに対する下落圧力は減少している。 (Specs cut US dollar shorts by more than half-CFTC

 こうした状態があと1-2週間ぐらい続いた場合「米国債を格下げしたS&Pの方が間違っていたんだ」という言説が、米金融マスコミにたくさん出るようになり、ムーディーズやフィッチは米国債を格下げせず、S&Pは米議会に呼び出されて「誤判断」を非難されるかもしれない。S&Pが格下げを撤回することはないだろうが、格下げは市場から無視される傾向となり、事実上「なかったこと」にされるかもしれない。債券市場の崩壊による今よりずっと大きな大混乱を避けたい金融界は、そうしたシナリオを考えているのでないか。

 私から見ると、今起きていることは、米国の金融覇権の行方をめぐる、米中枢での暗闘である。米共和党の中には、今回米財政赤字の上限引き上げ問題で米国に対する財政面での国際信用を失墜させた茶会派のように、米国の覇権をあえて自滅させようとしているように見える勢力がいる。茶会派は、連邦政府が、米国の地方自治の伝統を踏みにじって、中央集権的な政治と覇権的な世界戦略を続けていることを嫌い、あえて連邦政府を破綻させ、米国を昔の地方自治主導、孤立主義的な世界戦略の国に戻そうとしている。茶会派のゴッドファーザーであるロン・ポール議員は、以前から、連邦政府や連銀による米国内での独裁体制と、世界における米国の軍事覇権体制は、つぶれた方が良いと言い続けてきた。

 米政府の長期的な財政難の原因である、メディケアの将来的な支出急増構造(処方箋薬への適用拡大など)を作ったのは、共和党の前ブッシュ政権だった。ブッシュ政権では、過激なタカ派(ネオコン)がイラク侵攻や中東民主化を掲げ、軍事的に過剰な戦略をやって、米国の軍事力や財政力を浪費し、国際社会における米国の地位を低下させた。リーマンショックへの対策でも、当時のポールソン財務長官らが、金融危機の元凶となったジャンク債の債券金融バブル体制を改革するのでなく、公金投入や連銀のドル増刷によって不良債権を買い取り、債券バブルを延命させる不健全な方策を行った。その後、米金融は現在まで3年延命したが、同時に財政赤字の急増と連銀の勘定の肥大化、棚上げされた住宅ローン不良債権が金融界にいつまでも残る構造などが発生し、次に金融危機が再発したら手がつけられなくなる状況になっている。 (アメリカ財政破綻への道

 私が「隠れ多極主義」と呼んできた、米国中枢の勢力の一部が推進してきた、米国の覇権を自滅させようとする戦略は、19世紀末から続く、大英帝国の覇権体制を解体して新興諸国(発展途上国)の経済成長を引き出そうとする資本家的な動きであると考えられる。それに対抗して、大英帝国の覇権体制を維持しようとする勢力(米英中心主義)は、第二次大戦後、米国の軍事産業(軍産複合体)に取り付いて冷戦構造を作り出し、米英同盟が世界を支配する構図を確立した。それ以来、金融界など米中枢に、多極主義と米英中心主義の両方が存在し、延々と暗闘する構図になった。

 1970年代に共和党のニクソン政権(ロックフェラー家に雇われたキッシンジャー)がドルを自滅させたり、米中関係を好転させて冷戦構造に風穴を開けたりして、米英中心主義の体制をぶち壊しかけたが、80年代後半に米英中心主義は「金融自由化」によって債券金融システムの膨張を引き起こし、これを米英中心の世界体制の経済成長の永続化と、米英にとって経済的に脅威になる国々の通貨を、オフショアにためた非公然資金を使って投機筋などに破壊させる「金融覇権体制」を確立した。軍事主導の冷戦構造は不必要になり、冷戦が終結した。 (世界多極化:ニクソン戦略の完成

 今、起きていることは、80年代後半から20年以上続いた金融覇権体制が、バブルを作って潰して金融システムを破壊するやり方によって潰されていることだ。連銀のグリーンスパン前議長は、バブルを作って潰す役割を果たした一人だが、彼は「覇権はアジアに移る」と何度も発言している。キッシンジャーも、次の覇権国は中国だといったようなことをよく言う。オバマは民主党だが、当選に至る過程で金融界と組まざるを得ず、金融界が送り込んだ人々によって、政策を隠れ多極主義的な方向にねじまげられ、米国の経済や外交を立て直せずにいる。

 今回の米政界の財政議論と、米国債の格下げによって、米国の金融覇権を自滅させようとする動きが再燃した。しかし、米英中心主義の側は、株式市場を一時的に急落させて債券市場に金を集め、米国債の下落を防ぎ、米覇権の自滅を回避しようとしている。ここ数日、この回避策がしだいに有効な感じを増している。今回の暗闘の一幕は、米英中心主義の勝利に終わるのかもしれない。しかし同時に、米経済が悪化して不況に再突入する傾向がしだいに確定的になっており、今後の数か月以内に、金融危機が再燃する恐れがある。米中枢の暗闘は、まだ決着がついていない。 (U.S. Consumer Confidence Drops to Three-Decade Low Amid Economic Headwinds



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