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「危険人物」石原慎太郎

2012年10月30日   田中 宇

 10月25日、石原慎太郎が都知事を辞任して新党を結成し、政権をとると表明した。自らが発起人の一人である「たちあがれ日本」を母体として新党を作り、橋下徹・大阪市長が率いる「日本維新の会」や、渡辺喜美の「みんなの党」などと連携して政権を目指すという。石原は政権を目指す目的として「官僚による硬直した日本支配を壊すこと」を挙げ、この目的のためなら、原発や憲法改定、消費増税など「ささいな問題」における各党間の政策の違いを乗り越えて「いちどは戦争したが、幕府を倒して新しい近代的国家をつくる目的で大連合した薩長のように」連携できるはずだと述べている。

 中国のマスコミなどは、尖閣諸島の国有化を引き起こし、日中関係を悪化させた張本人である石原を「右翼」「極右」と非難する。これに対し石原は「あなたは右翼ではないのですか?」と尋ねる中国のメディアのインタビューに対して「(戦後の日本には)右翼なんてどこにもいないよ。街中で車を乗り回しているのは大方暴力団ですよ」と答えている。石原はこのインタビュー記事を好んでいるらしく、東京都のウェブサイトに和訳が載っている。 (石原慎太郎 日本の右翼はとっくに消滅している

 石原が言うとおり、戦後の日本に右翼はいない。右翼とは民族主義者のことであるが、民族主義とは、自分たちの民族が他のどこの国にも支配されず自立・自決する状態を求める政治運動のことだ。戦後の日本は、米国に従属し、自立・自決していないが、街宣車で叫ぶいわゆる「右翼」は、米国を批判せず、対米従属する自国を憂いもせず、逆に日本の対米従属を保持するのに必要な冷戦構造の維持を目指すかのように、反露(反ソ)、反中国の立場を強く採っている。戦後日本で「右翼」と呼ばれてきた勢力は、民族自決を目指すべき本来の右翼と正反対の「対米従属派」である。戦後の日本で本来「右翼」と呼べる存在は、自国の対米従属の方針に反対する勢力であるはずだが、実際には「親米右翼」のみが許され「反米右翼」は事実上禁止されてきた。

(日本の従属の姿勢や精神が問題になるべきであって、必ずしも米国を敵視する必要はない。米国の建国精神は、万人の自立・自決に対する尊重であり、むしろ民族主義に沿っている。だが、日本の支配構造は巧妙で隠微なので、日本人の多くは日本が積極的に米国に従属しているのでなく米国が日本を支配し続けたいのだと勘違いしている。この勘違いの前提に立つと、民族主義者は「反米」を掲げることになる)

 だから、戦後の日本に右翼がいないという石原の指摘は正しいのだが、その一方で、石原自身も右翼ではないという彼自身の指摘は間違っている。石原は今回の政権奪取計画の目的を「官僚支配を壊すこと」と言っているが、官僚機構は、外務省など官僚が政治家より優位に立てる対米従属の国是を維持し、鳩山政権など対米従属をやめようとする政界からの動きを次々と打破してきた。「官僚支配を壊す」という石原の宣言は、日本を対米従属のくびきから解き放つ試みに見える。日本を対米従属から解放することは、民族自決の方向性であるから、石原は民族主義者であり、本来の意味での右翼である。だから石原が、自身も含めて日本に右翼などいないと言うのは間違っている。石原自身は右翼である。石原は反中国であると同時に反米でもある(本人は、反米でなく嫌米、反中でなく嫌中だと言っている)。

 石原は各方面から「危険人物」とみなされているが、彼を最も脅威と思う勢力は、日本の官僚機構だろう。09年に民主党政権を実現した小沢一郎や鳩山政権は、対米従属を軽減して日本の自立を促進するとともに中国や韓国と親しくして「東アジア共同体」への参加を方針に掲げ、リベラル的な正攻法で国是の転換を図ろうとしたが、官僚機構やその傘下のマスコミから反撃され、短期間で潰された。小沢は反攻の機会をうかがっているが、再起できていない。

 小沢・鳩山による、リベラル(あるいは左)からの対米従属離脱作戦を潰した流れの一つは、石原らによる尖閣問題の扇動や、政治家の靖国神社への参拝によって中国を怒らせ、日中関係を悪化させて東アジア共同体構想を潰し、日本が米国に頼りつつ中国と対決せざるを得ない状況を作り出した「右」からの動きだった(「右」は俗称として使っている)。

 石原は4月に米国で、尖閣を東京都が買い上げると提案したが、これは中国共産党が薄熙来に対する犯罪者扱いを開始し、20年ぶりの権力闘争を始めた数日後だ。中国の中枢が不安定になり、人民の目をそらすための外敵が必要になったところに、石原が米国にそそのかされ(もしくは許可され)て尖閣買い取りを提起した。日本政府は7月に尖閣国有化の方針を出したが、これは1937年の盧溝橋事件の記念日と重なっていた。尖閣は9月に国有化されたが、これは1931年の満州事変の記念日と重なった。日本の尖閣買収は、中国の怒りを扇動する時期を選んで進められてきた感じだ。 (The Dangerous Math of Chinese Island Disputes

 米オバマ政権も、昨秋から「アジア重視」という名の、アジアの親米諸国(日本、フィリピンなど)に中国包囲網を強化させる策をやっており、その関係でも、尖閣問題で日中の対立を扇動することが日米同盟の強化ととらえられた。尖閣での日中対立の扇動が対米従属の維持に役立つため、マスコミは連日、尖閣問題での中国の脅威や理不尽さを大きく報じ、以前のように尖閣を「領土問題」と呼ぶことすら、昨今のマスコミではタブーになっている。 (日中対立の再燃

 しかし、尖閣問題で日中の対立が激化し、本当に日本と中国が尖閣周辺の海域で交戦する事態に近づくと、それは日本の対米従属に資するものでなく、むしろ日本が米国から自立する方向性を持つようになる。米政府は、表向き中国包囲網や中国敵視の戦略を掲げているが、実のところ中国と本気で対決する気などない。中国は米国債を買い支えてくれているし、米企業は中国への投資で儲けている。米政府の中国包囲網策は、日本などアジアの親米諸国に武器を買わせたりTPPなどで米企業に儲けさせたりするための口実にすぎない。

 米国は中国と本気で衝突したくないので、日本が尖閣の海域で中国と軍事衝突した場合、米軍はほとんど静観しているだろう。米政府は、口で中国を非難するだろうが、日本のために中国と軍事的に戦ってくれないだろう。在日米軍は1960年代ぐらいまで、日本の再軍備を抑止する目的で、日本が第三国から侵略された場合に日本を防衛するために駐留していた。だが72年の沖縄返還後、日本の防衛は自衛隊が担う体制に転換し、在日米軍は日本政府が駐留継続を希望しているので世界戦略にとって便利な拠点の一つとして駐留しているだけで、米軍が有事に日本を守る任務はない。

 だから、尖閣紛争で日中が軍事衝突しても、米軍は中国と戦わず後方支援しかせず、日本の自衛隊がほとんど単独で戦うことになる。今の軍事力のバランスで考えると、日中が尖閣海域で戦闘すると日本が勝つ。中国は中共成立後、領土紛争でインド、ベトナムなど外国と6回戦闘したことがあるが、いずれも全面戦争になっていない。日中が全面戦争になることより、日中の戦闘によって、在日米軍が日本を守らないこと、日本が独力で中国と戦えること、米軍が日本にいる必要がないことが判明する。

 米国は、日本に味方して中国と戦ってくれず、中立を装い、日中間の対立を仲裁する試みさえやるかもしれない。この事態は日米の関係を転換するだろう。官僚に抑え込まれてしまった民主党の野田政権は、支持率維持やオスプレイ配備を進めるための煙幕、石原の東京都に買収されて港湾施設を作らせないために、9月に尖閣の国有化を挙行したが、対米従属にマイナスになる中国との本気の対立を避けている。野田政権は中国政府との間で、尖閣の土地を国有化したが、引き続き尖閣に何の施設も作らず、日本人の定住や常駐もしないので、その代わり中国側も日本への敵対を和らげていくという密約を結んだという説もある。米国が中国と本気で対立する気がないことを考えると、これはありそうな話だ。

 石原は、中国との戦争も辞さずという態度だ。自国の戦争を容認するのは「悪」だと考える日本人が多い(米国の戦争はおおむね容認されているが)。石原は悪人だといえる。だが同時にいえるのは、石原のような右翼が政権をとると、日本は対米従属を維持できなくなって民族自決の方向に流れていき、同時に戦後ずっと続いてきた官僚独裁体制が壊れ、政治主導の体制になっていく。

(戦後の日本の官界や学界、マスコミなど、官僚支配のおひざもとの領域で、左派リベラルの存在が大っぴらに許された一つの理由は、左派の反戦・平和主義が日本の再軍備や軍事的な自立を抑止する際に使える論法だったからだ)

 日本が中国と武力衝突したら経済制裁され、国際社会で孤立して後悔するという見方も強い。私自身、そのような論調を書いている。石原は「経済利益を失っても良い。チベットのように民族の伝統とか文化を抹殺されて中国の属国になる方が嫌だ」と言っている。歴史的に見ると、日中は関係が良いときと悪いときがあり、関係が悪化しても、しばらく(10年とか)経てば改善する可能性がある。日本がいったん中国敵視を過激に強めて「右」から対米従属を離脱し、しばらく国際的に孤立しても、その後は国際的に自立した国とみなされ、米国とも中国とも今より良い関係を結べるかもしれない。 (尖閣で中国と対立するのは愚策

(現実論として、日本がチベットのように中国から文化を抹殺されることはない。歴史的に、中国にとって日本は「すぐれた中国の文化を教え込む影響圏の外にあり、野蛮なままにしておいてかまわない地域」という意味の「化外の地」に分類されている。日本の中央が前近代に東北・北海道や九州の、近代に沖縄の人々を容赦なく同化したのと同様に、今の中国はチベットを容赦なく同化している。その理由は、東北や九州が日本国内であると日本の中央が考えていたのと同様、中国政府がチベットを中国国内と考えているからだ。中国政府は、日本のことを外国と考えている。中国は伝統的に、朝鮮半島や東南アジア、モンゴルなどを、外国だが自国の影響圏内(化内の地)と考えているが、日本はその外にある)

 石原は、日本は核武装すべきだと公言してきたが、これも反戦論者を怒らせる一方で、対米従属の打破の方向性を秘めている。日本が核武装したら、米国は日本が自国の傘の下から離脱したとみなし、日米安保体制が無意味になり、日本は対米従属を維持できなくなる。ふだんは「右」的なことばかり言うマスコミに出る言論人の多くが、核武装問題になると急に左翼的な論調になるのは、彼らが対米従属の応援団としての機能をマスコミから期待されているからだ。

 英国のエコノミスト誌は、石原を「右翼のごろつき」と酷評する記事を出している。これは同誌の以前からの姿勢だ。同誌は軍産複合体・英米中心主義の雑誌で、日本の対米従属が永続することを支持しているので、官僚支配を壊して対米従属をやめさせようとする石原を酷評するのは当然だ。中国が、石原のような右翼の台頭を敵視する理由も、英エコノミスト誌と同様、日本が対米従属の自己抑止から解放されて自由に振る舞い始めることを嫌っているからだろう。 (Nationalism in Japan - Beware the populists

「憲法破棄」の主張も、石原が危険視される理由の一つだ。日本で検討されてきた憲法改定論議の中には「集団的自衛権」つまり米国がどこかの国や勢力(アルカイダなど)から攻撃されて反撃する(米国が反撃の名目で他国を侵攻する)際、日本の自衛隊が米国の「反撃」につき合えるようにするという対米従属の強化提案がある。冷戦後の米国の単独覇権主義の傾向に日本が合わせようとする動きだ。石原はこれと異なり、憲法自体が米国の製作物なので破棄せよといっている。

 ついでに書くと、石原は中国が自国を「真ん中の国」と考えて「中国」を自称していることを嫌って「シナ」と呼び、愛国的な日本人の中には、石原を真似て中国のことをシナと呼ぶ人が多い。だが、中国という国名を自国中心の傲慢なものというなら、愛国的な日本人が愛してやまない「日本」というわが国の名称も、使うことをやめねばならない。「日本」は「日の本の国」つまり東方にある国という意味で、中国を中心として日本が東方にあるので日本という自称になっている。「中国」だけでなく「日本」という国名にも、中国中心主義が入り込んでいる。

「日本」がダメなら「やまと」「大和」なら良いだろうか。いやいや、やまとの「や」と大和の「和」は、いずれも「従順、弱い」という意味の「倭(イ、ウェ、ワ)」とつながっている。昔の日本が中国を大国とみなし、中国に対してへりくだる意味で自称・他称していた名前だ。「や」とか「わ」という国名が、日本側自身がつけた名前で、それに「倭」という謙遜的な漢字を当てたのが当時の日本の対中外交上の策だったなら「わ」に「倭」でなく「和」という漢字を当てて今後の国名にできそうだ(「大」をつけて「大和」にするのは尊大で本来の日本の気風に合わないが)。だが「や」「わ」という音自体、中国側が勝手に日本につけた名前に最初から属していたものだったなら「やまと」「大和」も使えない。「大和」は「大倭」につながり「強いが弱い国」という矛盾した語源だ。日本は自分たちを自称する国名を持っておらず、常に中国からの視点で自国の名前をつけてきたことになる。

 中国に対してへりくだった名称は、東アジアの歴史上めずらしいことでない。韓国の首都のソウルは漢字で書くと「首邑」で「主たる村」という意味だ。「首都」でなく「首村」である。朝鮮と同様、中国と主従関係を結んでいた琉球王朝の首都だった「首里」(今の那覇市内)も、意味は「主たる集落」だ。これらはいずれも「私どもの首都は、中国様の立派な都と全く違い、小さな田舎の村でございます」という、中国に対する臣下の礼をとる意味のへりくだりを含んだ自称である。日本や韓国の今の対米従属精神は、元をたどると中国に対する従属精神から発しているとも考えられる。

 話が本題から外れて長くなっている。本論に戻る。小沢・鳩山のリベラル・中道(左派)的な正攻法の官僚破壊・対米従属離脱策が失敗した後、日本では、尖閣問題で中国との敵対を煽ることで日米同盟・対米従属を守ろうとする右派的な動きが強まった。だが、この右派的な流れも、石原の過激な右派運動の台頭を招き、こんどは右から対米従属を壊そうとする動きにつながっている。

 これは、米国でネオコンが出てきた経緯と似ている。米国では冷戦後、リベラル・中道的な角度から、米国が中国など他の諸大国の台頭に寛容になることで覇権の分散(多極化)を容認する試みが、パパブッシュやクリントン政権の時代にあったが、この動きは軍産複合体やイスラエルから阻止された。代わりに出てきたのが、右派的な「ネオコン」「単独覇権主義」で、軍産複合体が好む軍国主義と覇権主義を過激に極限までやることで米国の軍事・外交・財政面の国力を浪費させ、軍産複合体が弱体化し、疲弊した米国が中国などBRICSの台頭を容認せざるを得なくなり、多極化につなげている。左(中道)からの正攻法でやって成功しないものが、右からの裏技によって成功している。 (ネオコンと多極化の本質

 同様に日本では、米国の軍産複合体の日本支部ともいえる官僚機構を潰す転換が、中道的な小沢・鳩山の正攻法で成功しなかった後、官僚機構が好む穏健な右派の方向性を過激にやることで、逆に官僚機構を潰そうとする石原の動きが起こっている。嫌中ナショナリズムを扇動する動きは元来、対米従属を保持するためのものなので、それを強くやっている石原をマスコミは賛美するしかない。

 これは、米国のマスコミがイラク侵攻という自滅的な戦争を挙行するネオコンを賛美したのと同じ構図だ。石原が政権をとると、日本は米国と中国の両方から嫌われて孤立するだろう。これを「日本の自滅」と考える人も多いだろうが、同時に言えるのは、日本が米国から離れることは自立につながるし、米国から離れつつ中国に接近する小沢・鳩山の正攻法が成功しなかった末の次善の策という見方だ。

 今後、マスコミは石原批判に転じるかもしれない。また、日本の国民が石原を過激とみなして支持が低下するかもしれない。中国などと戦争するぐらいなら、財政やドルが破綻する米国の道連れになり、日本も国富を失って貧乏になるとしても、対米従属や官僚独裁を続けた方がましだという考えもありうる。戦後の日本人は一般に、米国人よりずっと臆病で、根本的(ラディカル)に考えず表層的だ。ラディカルな石原は戦後的でない(戦前的だ)。

 官僚と政治家の暗闘が続いているため、政界には官僚機構の傀儡として機能する政治家がたくさんいる。彼らは、表向き「官僚支配を打破する」と言いつつ、実際には最終的に官僚支配の維持につながる政策を進める。官僚から権力を奪って地方に分散するはずの地方分権が、東京から地方の財務局などに権限の一部を移したり、各県庁に官僚出身の知事や幹部がいて彼らが権限を持つだけに変質したり、米国から押しつけられた憲法を改定すると言いつつ、対米従属を強化する集団的自衛権の加筆になっていたりする。石原も、そのような「対米自立派のふりをした隠れ従属派」なのかもしれないが、彼は外務省を米国の傀儡呼ばわりし、核武装を主張するなど、従属派が嫌がることを言って回っているので、隠れ従属派とは考えにくい。もし隠れ従属派であるとすれば、かなり手が込んでいる。



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