香港市民をパニックに陥れた「鶏インフルエンザ」

97年12月19日  田中 宇


 まだ香港がイギリスの植民地だった今年3月、中国国境に近い香港のはずれの農村地帯、新界地区にあった3ヵ所の養鶏場で、多くのニワトリが短期間に病気にかかり、死んでしまうという伝染病が発生した。3ヵ所の養鶏場のニワトリの約3割が死ぬという、致死率の高さだった。専門家は、ニワトリのインフルエンザが発生した、と断定した。

 それから約2ヶ月後の今年5月、香港で3歳の赤ちゃんが、高熱と咳に苦しみながら死んだ。インフルエンザに感染していた、と診断された。発病から死亡まで、10日間という短さだった。そして、そのさらに3ヶ月後の8月、アメリカやオランダの専門家による調査の結果、ニワトリを大量死させたのと、3歳児を死なせたのは、同じ「H5N1」というウイルスであることが判明した。

 このことは、世界中の免疫学者たちを驚かせるものだった。これまでインフルエンザのウイルスは、豚や牛から人間への感染は見つかっていたものの、鳥類から人へ感染するとは考えられていなかったためである。

 11月末になると、香港の13歳の女の子が同じインフルエンザにかかって入院し、さらに12月5日には、54歳の男性が、このインフルエンザで死亡した。12月に入って発病者は徐々に増えて8人となった。

●ワクチンの製造は間に合うか

 ニワトリなどの鳥類が原因らしいということで、鳥類とは縁が深い香港社会はパニックとなった。人々は鶏肉を好んで食べていたし、中国社会の伝統を受け継いで、鳴き声のきれいな小鳥を小鳥をペットとして飼うことも、広くおこなわれているからである。

 人々は鶏肉を敬遠し、鶏肉の売り上げは急に3-5割も減ってしまった。5月に亡くなった3歳児は、保育園で飼っていたヒヨコから感染したとの疑いが伝えられたため、鳥を飼っていた学校や家庭では、子どもが感染しないよう、殺してしまったり、屋外に放したりした。小鳥好きが集まる「バードストリート」の人通りも減ったという。香港の鶏肉の約8割を卸売りしている長沙湾の食肉市場では、衛生重視のため、12月15日から17日まで取り引きを停止し、徹底的な消毒をおこなった。

 今回のインフルエンザは、まだ実際の被害はそれほど広がっていないものの、新型のウイルスであるため、世界の免疫学者の間では、大きな危機感を持たれている。特に、発病を予防するためのワクチンが、まだ作られていないことが大きな問題だ。効果のあるワクチンが見つかっても、大量生産が軌道に乗るには4ヶ月はかかるといわれている。

 今回の新型インフルエンザは、鳥から人への感染力はあっても、人から人への感染力はあまり強くないとの指摘もある。とはいえ逆に、発病していない潜在的な感染者がすでに多くおり、ある時点で爆発的に発病者が増えるかも知れない、ともいわれている。もし、多くの人が同時に発病した場合、香港では隔離病棟が足りなくなる、とも指摘されている。(香港には現在、数十床の隔離病棟しかないという) 

 香港はアジアの交通の要所であるため、インフルエンザの猛威が世界に広がる可能性もある。日本では厚生省が、国内で流行すれば、最悪の場合、国民の4人に1人にあたる3000万人以上が感染し、死者も3万-4万人にのぼるのではないか、と予測している。

 こうした危機感から、12月初旬に状況が深刻化するとと同時に、アメリカの免疫学の権威である「アメリカ疾病管理センター」(US Center for Disease Control) とWHO(世界保健機関)の専門家による特別チームが、いち早く香港に派遣された。このチームは、感染経路を特定するための調査を続けるとともに、死去した患者の体に残された、ウイルスに冒された細胞を採取するなど、ワクチンを作るための作業をしている。

●鳥から人へは感染しないはずだった・・・

 毎年冬に発生する通常のインフルエンザとは異なり、今回のような新型インフルエンザは、人類にとって完全には解明されていない、重大な伝染病である。1918-19年には、世界中で2500万人以上が死去した「スペイン風邪」、1957年には中国南部から始まり、世界で10万人近くが死去した「アジア風邪」、1968年には香港から世界に広がって5万人近くが死去した「香港風邪」などというように、10-20年ごとに人類を襲っている。

 これらの世界的な蔓延のたびに、感染経路やウイルスの正体についての調査が行われた。その結果1970年代に、一つの仮説が打ち立てられた。最初に新型インフルエンザのウイルスを持っているのは、ニワトリやアヒルで、そこから豚に感染し、さらに豚から人にうつるのではないか、という学説である。

 鳥類と豚は同じA型ウイルスに感染することは、すでに確認されており、人と豚もまた、同じウイルスに感染するが、人と鳥は同じウイルスに感染しない、と考えられてきた。そのため、鳥からうつされたウイルスが、豚の体内で人にもうつるウイルスと同居する間に、ウイルスの遺伝子が組み替えられ、人に感染する新しいウイルスが生み出されるのではないか、と考えられた。

 さらに、1957年と1968年の2回のインフルエンザの発祥地は、中国南部ではないか、とみられている。中国の農村には、たくさんのニワトリ、アヒル、豚、そして人間が、一緒に生活している。そのため、鳥から豚へ、そして人間へと感染する機会も多いと思われるからである。

 今回の新型インフルエンザが本当に鳥から人に感染したのなら、こうした学説に矛盾が生じることになる。だが、発祥地は今回も中国南部である可能性がある。香港に入ってくる鶏肉とニワトリの85%は、中国からの移入だ。WHOなどから来た専門家チームは、香港と境界を接する中国・広東省の深セン市で、養鶏場のニワトリが大量に死んでいたことを知り、深センに行って調査を続けている。

 香港では、中国産の鶏肉を使っていないという風評から、わざわざケンタッキーフライドチキンに食べに行っている人もいるという。

●これを機に秘密が解明されるかも?

 状況はこのように危機的なのだが、専門家の間では、今回の発生を機に、新型インフルエンザの発生メカニズムについて、こまれで分からなかった点が明らかになるのではなか、と期待されている。今回は3月の、養鶏場でのニワトリ大量死の時からウイルスが把握できており、以前の新型インフルエンザに比べ、発生のかなり早い段階から動きが分かっているためである。

 ウイルスは鳥や豚の体内にある時は、鳥や豚はウイルスの猛威を食い止める抗体を体内に持っているため、発病しない。だがこうした抗体を持たない人間にウイルスが感染すると、ウイルスは細胞を食い荒らし、インフルエンザを発病させてしまう。これを食い止めるため、人の体内にあらかじめ抗体となるワクチンを打っておけば、感染しても発病しない。

 どの動物のどのウイルスが人に移ったかを突き止めれば、抗体がどのようなものであるかが分かり、ワクチンを作りやすい。インフルエンザの感染経路を解き明かすことが重要なのは、このためである。

 香港では親たちが子供の感染を防ごうと、必死になっている中、専門家による原因究明が進んでいる。新型インフルエンザは今後、日本に入ってくる可能性もある。読者の皆さんも、お体には気をつけて年末をおすごしください。

 
田中 宇

 


関連ページ

新型インフルエンザついに出現か?
新型インフルエンザの発生メカニズムについて、わかりやすく説明している。筆者のおすすめページ。「猛威を奮うインフルエンザ!」という記事も。Electron micrograph Home pageにある。

インフルエンザを防ぐ
予防法などについて書いている。痴呆症・医療情報公開などに関してのホームページにある。

病気とワクチン-インフルエンザ
北里研究所 生物製剤研究所による、インフルエンザの症状やワクチンについての説明。北里研究所のホームページにある。

よみうりもの知りニュース「インフルエンザ」
新型ウイルスの出現について書いている。

 

以下は英語のサイト

Influenza A (H5N1)
新型インフルエンザについてのリンク集。公的機関の発表資料や論文、新聞記事へのリンクなど、膨大な数があり、英語のインターネット世界の広さを感じる。

Update: Avian flu transmission to humans
アメリカ疾病管理センターが、今回の香港のインフルエンザ渦について経過を説明している。

香港特別行政区政府の発表資料
インフルエンザ渦に関する調査報告など。





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