暴れ出すアジアの古代宗教

98年6月8日  田中 宇


 東南アジア・ラオスの南部、カンボジア、タイとの国境近くのメコン川沿いの山麓に「ワットプー」という、大きなお寺の遺跡がある。

 この寺は今から1500年前の5-6世紀ごろ、ヒンズー教の寺院として建てられた。カンボジアのアンコールワットが建立される200年ほど前のことだ。そのころはワットプーの近くにあるチャンパサックという町が、メコン川下流地域の中心地だった。

 昨年この寺を訪れて、驚いたことがある。山肌を利用して作られた寺のたたずまいが、日本の山岳信仰系のお寺や神社とそっくりだったのである。

 うっそうと茂る木々の間を石段が延々と続く。数10メートルおきに一息つけるような踊り場があり、そこには石灯篭のような石柱が両側にならんでいる。よく見ると灯篭ではなく、ヒンズー教の神様「シヴァ」を祭る男根信仰に基づく、「リンガ」と呼ばれるつくしんぼのような形をした石柱だ。

 筆者はこの石柱を見たとき「ははあ、日本の石灯篭の原形は、これだったんだ」と思った。この寺は、後ろにそびえる山の形自体が、先の尖った男根のような形をしており、全山がシヴァ神信仰に根差している。

 さらに上がっていくと、木々に囲まれた広場の真ん中に、本堂が建っていた。本堂は石造りで、木造の日本の寺社建築とは全く違うが、本堂の背後には絶壁の岩肌になっていて、これも日本人にはなじみの深い景観だった。岩肌の一角からは清水が湧いていて、飲めるようになっていた。

●「赤飯」に残る古代の生活

 だが何故、ラオスの古代ヒンズー寺院と日本の寺社の作りが同じなのだろう。日本の寺社といっても、町の中にある、かつて中国から輸入した伽藍形式の寺ではない。6世紀の仏教伝来より古くからあったと思われる、伝統的な山岳信仰の寺や稲荷神社と同じ神秘さを、ワットプーは持っていた。

 古代のヒンズー教はバラモン教とも呼ばれ、世界4大文明の一つインダス文明の宗教と、インダス文明を滅ぼしたアーリア人の宗教が、今から3500年ほど前に混ざって生まれた宗教と考えられている。その後は仏教やイスラム教が影響力を増したため衰退していったが、インドの独立運動の際に国民統合の象徴としてヒンズー教復興運動が起こり、ヒンズー教は再びインドの主力宗教となった。

 インドから海外へのヒンズー教の伝播は、紀元1世紀ごろからインド商人の行き来とともに、しだいにタイやインドシナ、インドネシアに伝わった。ワットプーから300キロほど離れているアンコールワットも、ヒンズー寺院として建てられた。その流れから考えると、古代にインドからメコン川流域に伝わったヒンズー寺院の様式は、その後日本まで伝わり、仏教伝来前の日本の宗教に大きな影響を与えたのかもしれない。

 そういえば、かつてインドの宗教都市ベナレスを訪れた際、町中の細い路地のあちこちにあるヒンズー教の祠や社の雰囲気が、京都の古い町並みの中にある地蔵さんや祠とそっくりだ、と思ったことがある。

 さらに大胆な発想をするなら、稲作の発祥地がメコン川流域とされていることとも関係も思い当たる。古代のコメの主力であった「赤米」が、ラオスでは食堂のメニューに載っていた。

 古代の日本でもコメといえば、今の白いコメではなく、もち米に似た茶色い赤米だったとされている。日本でお祝いのときにコメを赤く染めた赤飯を食べるのは、古代にコメが貴重品だったころ、そのコメは赤米だったことに由来している、と聞いたことがある。

 カンボジアからベトナムにかけての地域には、紀元1-6世紀に「扶南」という海洋王国があり、インドと東アジアの貿易を盛んに行っていた。メコンから日本まで、稲作がどんなルートで伝わったか諸説あるようだが、ヒンズー寺院建築とともに海路、日本に伝えられたのかもしれない。

●イスラム教や仏教は「新しい宗教」

 ここまでの話には、筆者の空想が入ってしまったが、ヒンズー教が古代の東南アジアで大きな影響力を持っていたことは事実だ。タイ語やカンボジア語、そしてマレーシア・インドネシア語の単語の中には、インドの古代言語サンスクリット語(梵語)から導入した言葉が、多く含まれている。

 東南アジアの宗教の中心は現在、イスラム教と仏教だが、いずれも13-14世紀以降に入ってきたものだ。イスラム教は中東と中国を結ぶ「海のシルクロード」の交易ルートに乗って、アラビアからインドを経て、今のマレーシア、インドネシア、そしてフィリピン南部やベトナム、中国南部へと布教された。

 仏教は13世紀、仏教信仰が盛んだったスリランカに留学したミャンマーのお坊さんが、帰国後に広めていったもので、陸伝いにタイ、カンボジア、ラオス、ベトナムに広がった。筆者が訪れたワットプーも、今は仏教寺院になっていて、本堂には大きな仏像が置かれていた。

 たとえば、今はイスラム教徒が国民の90%以上というインドネシアだが、15世紀より前は、ヒンズー教の王国があった。ジャワ島のヒンズー教王朝はその後、イスラム教に改宗した別の王朝に駆逐され、神官や芸能人集団をつれてバリ島に逃れた。そのためバリ島だけは、今も人々の90%がヒンズー教徒だ。

 とはいえ、イスラム化した後も、インドネシアの伝統の中には、現在に至るまでヒンズー教の影響が色濃く残っている。インドネシアが誇る航空会社の名前は「ガルーダ」だが、ガルーダとは半分が鳥、半分が人間という、ヒンズー教の神様である。

●スハルト大統領はヒンズー教の神様だった?

 スハルト前大統領はイスラム教徒ではあるものの、幼いころ親戚の祈祷師に育てられたため、ヒンズー教的なジャワ島の伝統信仰の影響も強く受けていた。カンボジアやジャワの古代ヒンズー王朝では「国王には神様が乗り移っている」とされていた。

 その信仰を受け継いで、スハルト大統領は、神性を授かった存在として国民から見られることを望み、あまり多くを語らず神秘的な雰囲気を残し、発言の際は色々な意味に解釈できる言い回しをすることを好んだ。

 そうしたスハルト信仰が崩れたのは、インドネシア人全体が豊かになり始め、欧米の価値観が流入した結果、人々のなかに伝統的な考え方が失われていったことが一因だろう。

 インドネシアはかつて、人々のほとんどが神話の満ち溢れる農村に住んでおり、スハルト大統領の統治神話が受け入れられたが、今や多くの人々がジャカルタやスラバヤといった大都市に出稼ぎに行き、急速に欧米文明に染まりつつある。

 5月に起きた暴動は、農村の神話世界と、都会の「近代」との間の矛盾が爆発した、と比喩的に考えることができる。

 スハルト大統領は、妻のティエン女史が1996年に亡くなってから「神通力」が失われた、という人もいる。ティエン女史はスハルト一族の影の取り仕切り役で、スハルト家の子供たちは、子煩悩な父より、しつけに厳しい母のことを恐れていた。

 母親が亡くなった後、歯止めをかける人がいなくなった子供たちは、取り巻きの財界人たちにそそのかされ、「ビジネス」と称して利権あさりや公営企業の私物化に走り、父親が築いた国家を崩壊の危機に追いやったのだった。

●インドに仕返しするマレーシアのイスラム教徒

 一方、ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立がこのところ激しくなっているのが、インドネシアのお隣のマレーシアだ。

 マレーシアは国民の50%がマレー系イスラム教徒、30%が中国系、10%がインド系ヒンズー教徒という構成になっている。マレー系は大昔から住んでいた人々だが、中国系とインド系は19世紀、植民地支配者だったイギリスが、鉱山やゴム農園で働かせるために、中国やインドから雇い入れた出稼ぎ労働者の子孫である。

 このうち、マレー系とインド系の宗教対立が、インドやパキスタンで激化している対立に影響されるかたちで、激しくなっている。インドでは多数派のヒンズー教徒が、少数派のイスラム教徒の寺院を破壊しているが、マレーシアでは逆に、多数派のイスラム教徒が少数派のヒンズー教徒の寺院を破壊している。

 紛争の中心地は、インド系が比較的多く住んでいるイギリス時代の貿易港ペナンで、イスラム教団体からのクレームを受けた行政当局が、ヒンズー寺院を「違法建築だ」と摘発し、強制的に取り壊してしまう、とういう事件が、今年3月と5月に起きた。同様の動きは南部の港町マラッカでも発生したほか、北東部のパハン州では、ヒンズー寺院に火炎瓶が投げ込まれた。

 マレーシアでは1969年、マレー系と中国系の対立が暴動に発展した歴史がある。その時の教訓から、民族対立を超えた挙国一致の政治体制が組まれ、与党の国民戦線(NF)の傘下には、マレー系、中国系、インド系の政党が入っている。だが今回の一連の事件によって、この政治体制が崩壊する危険が出ている。

●元祖インドでも荒れ狂う「ヒンズー原理主義」

 他方、ヒンズー教の発祥地インドでは、ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立が、新たな政治的な混乱を引き起こしている。

 インドが核実験を実施した背景には、ヒンズー教至上主義に基づく政党であるインド人民党が政権を獲得したことがあることは、以前の記事「インド核実験を支える危険な民族主義」 (5月17日)で解説した。核実験そのものは、インド国民の80%を占めるヒンズー教徒の多くから熱狂的に支持された。

 だが賛美の嵐が一段落すると、野党は「核実験による国際的な孤立で、国民の生活に悪影響を与えた」として、人民党批判を開始。それに呼応するかのように、5月26日に首都ニューデリーの発電所故障がきっかけで起きた暴動では、圧倒的支持を受けているはずの人民党の事務所も襲われた。

 ニューデリーはこの日、気温が46度にもなった。冷房の電力消費によって発電所に負荷がかかりすぎて故障し停電となり、暑さに怒った人々が電力会社や役所を襲撃したのだった。老朽化した発電所を建て替ようにも、欧米や日本からの支援は止められようとしている。

 人民党は人々の不満をそらすため、ますます国内のイスラム教徒や隣国パキスタンへの攻撃を強めざるを得ないだろう。

 紛争の火薬庫といわれるカシミール地方では、インドが核実験をした直後から、インド側からパキスタン側の村に向けて拡声器で「早くこの地域から出て行かないと、お前たちの命はない」といった脅し文句が流された。

 パキスタン側の軍司令官は首都イスラマバードに急行してシャリフ首相と会い、パキスタンも対抗して核実験をしなければ、インド軍がいつ攻撃してきてもおかしくない、と報告した。この時の報告でシャリフ首相は核実験の実施を決めたとされている。

 核実験実施後、パキスタン側はカシミール国境沿いの村のイスラム寺院の塔の上の拡声器から、インド側に向けて「そっちこそ出て行け」とやり返したという。

●「ちゃっかり伝統」に生きるタイ

 きな臭い話ばかりがアジアを横行する中、民族対立にちゃっかりと現実的な対処をしているのがタイだ。タイ政府は、インドネシアで中国系住民が危険にさらされているのをみて、「1000万バーツ(約3400万円)以上持っている中国系の人には、タイの永住権をあげます」と発表したのである。

 タイは以前から、同じ条件で外国人の永住権取得を許可している。最近ではインドネシアのほか、来年中国に返還されるマカオからも、お金持ちの永住権申請がきているという。

 このところの経済の国際化で、世界中が国境を越えて一つになるようなイメージがあふれているが、その本質は古代からたいして変わっていないのかもしれない。





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