バルカンの憎しみとコソボの悲劇

98年10月27日  田中 宇


 今年5月、インドネシアで暴動が起きたとき、欧米の新聞記事の中に「インドネシアは゛海のユーゴスラビア゛だ」「バルカン化するインドネシア」などといった表現が出てくるのを何度か見つけた。

 インドネシアもユーゴスラビアも、宗教や民族が異なる何種類もの人々が住んでいて、いったん統一が崩れたら、内戦に陥ってしまい、再び統一するのがとても難しい。そんな類似点を踏まえて、インドネシアの混乱について解説するために、ヨーロッパの読者に理解しやすいユーゴスラビアの例を引いた、ということらしい。

 ヨーロッパ人にとって、インドネシア情勢を説明するのにユーゴとの類似性を指摘することが便利だとしたら、日本人にとっては、ユーゴ情勢を説明するのにインドネシアとの類似性を考えるのが良いかもしれない。

 ユーゴスラビア建国の父といえばチトー元大統領だが、彼とスハルト大統領の役割は似ている。チトーは、バラバラだったユーゴの人々に「共産主義を達成する」という、民族主義を乗り越える目標を与え、民族間の対立が深まらないようにする枠組みを作った。

 それでも消し去れない民族主義の動きに対しては、ユーゴスラビア連邦内の各共和国にある程度の自治権を与えることでガス抜きする一方、反政府活動は秘密警察などを使い、徹底的に弾圧した。チトーの個人的カリスマも強かったため、かつて第1次大戦の発火点となったユーゴスラビアは、第2次大戦後は冷戦時代を通じて、一つの国としてまとまりつづけることができた。

 スハルト政権下のインドネシアでは、ユーゴの「共産主義」にあたる国家目標は「経済成長」だった。日本などからの外資導入政策によって、インドネシア全体が経済成長できるようにしたうえで、東チモールやアチェ、イリアンなどの地域の分離独立活動を容赦なく弾圧した。

 ユーゴスラビアでは、1980年にチトーが死去した後も、各共和国から輪番で大統領を出す、という集団指導体制で連邦を維持したが、1990年にソ連が崩壊し、共産主義という目標が崩れてしまうと、国家解体の危機に陥った。インドネシアも昨年、東南アジア金融危機によって経済成長が不可能になると、スハルト政権が崩壊し、似たような末路をたどった。

●歴史観の違いがコソボ問題の底流に

 ユーゴスラビア連邦が崩壊していく中で、政治権力を獲得したのが、セルビア共和国の大統領から新ユーゴスラビア連邦の大統領となったミロシェビッチ氏だった。民族主義傾向が強い彼は、民族意識の復活によってユーゴスラビアがバラバラになってしまうのなら、その前に国家体制をセルビアを中心とする形に変えてしまい、セルビアの武力によって他の民族の離反を防ぎ、ユーゴ連邦を維持しようと考えた。

 ユーゴスラビア(旧ユーゴ)では、セルビア人が人口の42%を占める最大の民族だったが、そのほかにクロアチア人(24%)、スロベニア人(9%)、マケドニア人(5%)、アルバニア人などがいた。これらの人々の多くが、ユーゴ連邦から独立したいと考えており、冷戦終結とともに各地で独立運動が始まっていた。

 特に早くから独立運動が盛んだったのが、セルビア南部のコソボ州だった。人口200万人のコソボは、住民の9割がアルバニア人で、セルビア人は約18万人しかいなかった。コソボではチトー時代の1974年に自治が認められたが、1980年代になって自治権の拡大を求めるアルバニア人のデモなどが繰り返された。セルビアでは反アルバニア人感情が強まり、それを背景に、セルビア共産党幹部だったミロシェビッチ氏が台頭した。

 コソボは今でこそセルビア人が少ないが、歴史的にみると、「セルビア発祥の地」でもあった。歴史上、最初のセルビア王国が中世にコソボに作られたが、その後1389年には、拡大しつつあったオスマントルコとの戦いに敗れ、王国は滅亡する。

 オーソドックス(正教会)のキリスト教徒であるセルビア人は、イスラム教国だったオスマントルコの支配下で「2流市民」として扱われ、ひどい目にあった・・・というのが、セルビア民族主義の観点に立った歴史観である。

 次にセルビア人の国家ができたのは、オスマントルコが滅亡した後の今世紀初めだった。それまでの間に、コソボに住んでいたセルビア人たちは北方に移住し、代わりにイスラム教に改宗したアルバニア人が住むようになった。

 ミロシェビッチ氏は、こうした歴史をセルビア人の側から解釈し、「イスラム教のオスマントルコが、キリスト教徒のセルビア人をコソボから追い出し、イスラム教徒のアルバニア人を住まわせた。セルビア人には、コソボを取り戻す権利がある」と主張する演説を、コソボの中心地プリスティナで行った。

 彼がセルビア大統領になる前、セルビア共産党の党首だった1987年のことだった。この演説が、その後現在に至るまで続いているユーゴスラビア内戦の発火点となった。

 セルビア人は、セルビア以外の各共和国にも、少数派として住んでいた。ミロシェビッチ氏は、各共和国にいたセルビア人を、分離独立に反対する勢力として育て、それをユーゴ連邦軍が支援して軍事介入し、分離独立を粉砕する、という方法を考えた。それを実現するため、各共和国にいるセルビア人たちの民族意識を鼓舞したのが、プリスティナでのミロシェビッチ氏の演説であった。

 とはいえ、セルビア民族主義のコソボに対する歴史観は、アルバニア人から見ると、非常に偏向しているということになる。アルバニア人にとってコソボは、アルバニア民族自決の発祥地であるからだ。オスマントルコが衰退していった19世紀末、コソボでアルバニア人の独立運動が始まり、1912年のアルバニア独立とともに、コソボはその一部となった。

 だが、ヨーロッパの列強諸国によるオスマントルコ衰退後の領土争奪戦の中で、コソボはアルバニア領から引き離され、セルビアに編入された。これが列強の圧力によるものだったとして、アルバニアではコソボがアルバニアの一部であると主張する人が多い。コソボ紛争の根底にはこうした、セルビア人とアルバニア人との歴史解釈の違いがある。

●暴力を容認し、非暴力運動を無視した「国際社会」

 ミロシェビッチ氏は、セルビア大統領となった直後の1989年、コソボに与えられていた自治権を剥奪してしまった。これでアルバニア人の不満は一気に高まった。

 だが、コソボのアルバニア人たちは、武力闘争をしなかった。コソボの指導者たちは、独立を求める活動家たちをノルウェーに派遣し、非暴力による運動のやり方を学ばせた。セルビア人が支配するコソボ政府のほかに、アルバニア人による影の政府が作られ、影の内閣も任命された。キャンパスを持たないコソボ大学も作られた。同じ民族の国である隣国アルバニアには、領事も置いた。

 実体は「国家ごっこ」でしかないとも言えたが、いずれコソボの独立が認められれば、すぐに国家として機能できる状態にあることを世界に示そうとするものだった。

 一方、ユーゴスラビアにおける民族戦争は、ミロシェビッチ氏が予期したコソボではなく、北方のクロアチア、そしてボスニア・ヘルツェゴビナで相次いで勃発した。いずれも、共和国がユーゴ連邦から離脱して独立宣言した直後、領内のセルビア人が自分たちの居住地域を自治区にすると宣言し、セルビア軍がこれを支援して軍事介入して戦闘が拡大する、という構図をたどった。北方では、ミロシェビッチ氏が予測した通りの展開となったのである。

 ボスニア・ヘルツェゴビナの戦争は1995年にアメリカが仲介し、当事者間でデイトン和平合意が結ばれ、停戦した。ボスニアは、ユーゴスラビア連邦から独立した国家となったが、領土内にセルビア人の自治区である「セルビア人共和国」(領土の49%)と、セルビア人以外のボスニアの人々(クロアチア人とイスラム教徒)の地域である「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(51%)の2つが、国家内国家として作られる、という結果となった。

 これは、コソボのアルバニア人たちにとっては、大きなショックだった。ボスニアのセルビア人たちは、以前は仲良く共存していた何万人ものイスラム教徒の村を焼き払い、人々を殺したり強姦したりして、暴力によってボスニアの半分を占領した。そんな乱暴なやり方をしたセルビア人の自称国家が、国際社会から認知された。

 一方、コソボのアルバニア人たちは、平和的なやり方で独立を要求しつづけたのだが、デイトン合意の中では、コソボのことはテーマさえしてもらえなかったのである。暴力による国家樹立は「国際社会」から認められるが、非暴力による国家樹立要求は全く無視される・・・。

 マハトマガンジー以来の非暴力運動の尊さは幻想にすぎず、暴力こそが目的を達成できる方法なのだ、という教訓を、コソボのアルバニア人たちに与えることになった。

●アメリカ政府代表の一言がコソボ虐殺の遠因に

 コソボではこの後、1996年に入って、武装ゲリラ「コソボ解放軍」(KLA)の活動がしだいに盛んになった。97年後半になると、隣国アルバニアから大量の武器がコソボに持ち込まれるようになり、KLAはセルビアの武装警察に攻撃を仕掛けるようになった。

 コソボ情勢が一触即発となった今年2月、アメリカ政府のバルカン問題担当の代表がセルビアの首都ベオグラードを訪れた。彼は、停戦後のボスニアに対するミロシェビッチ氏の協力的な態度を賞賛しに来たのだったが、同時にコソボ問題について触れ、「KLAはテロリストだ」と断定発言をしてしまった。

 この発言は、大きな間違いであった。ミロシェビッチ氏にとってこの発言は、セルビアの軍と警察が、コソボのアルバニア人を徹底弾圧してもかまわない、というお墨付きをアメリカから受け取ったということだった。セルビアにとって、KLAとコソボの一般のアルバニア人とは、ほとんどイコールだった。KLAがテロリストだということは、コソボのアルバニア人すべてがテロリストだと見なしてよいということだった。

 セルビア側は、ボスニアなどでさんざんイスラム教徒を虐殺したり村を焼いたりして「民族浄化攻撃」をした経験を持つ兵士たちをコソボに送り込んだ。彼らはKLAが出没する地域の村々を襲撃し、アルバニア人たちの家を焼き、抵抗する人々を殺した。

 こうした動きを見て、アルバニア本国や、ボスニアなどから、イスラム教徒たちが、義勇兵としてKLAを支援するため、コソボに集まってきた。(ボスニアのイスラム教徒は、民族的にはセルビア人やクロアチア人だが、同じイスラム教徒同士ということで、アルバニア人に親近感を持っている)

 結局、ボスニア戦争の敵味方の参加者が、戦いの場をコソボに移して戦争を続ける、という展開となった。

 7月ごろになると、西ヨーロッパ諸国に出稼ぎに行っているアルバニア人たちから、軍資金が続々と送金されてくるようになった。欧米の新聞は、毎日のようにコソボでの戦闘の様子を報じていた。論調のほとんどは、残虐なセルビア人武装警察が、罪もないコソボの一般市民を殺している、というものだった。それを見てアルバニア人たちが行動を起こしたのだった。KLAはコソボの40%を勢力下に置くまでになった。

●欧米が今一つ強く言えないのは・・・

 セルビア側は、5月と7月に大攻撃をかけ、コソボとアルバニアの国境地帯の村々を焼き払った。アルバニアからの武器や資金、義勇軍の流入を止めようとする作戦だった。アルバニアの政治は、昨年から不安定になっており、国境警備も不十分だった。アルバニア側に逃げ込んだKLAのゲリラ軍を追って、セルビア軍がアルバニアの領内に入り込み、アルバニアとセルビアが戦争状態に入る危険が出てきた。

 これは、非常に危険なことだった。アルバニア人と、セルビア人などスラブ系の人々が混住しているという面では、コソボの南にあるマケドニア共和国や、西にあるモンテネグロ共和国でも同じであり、コソボだけだった戦いが、一気に周辺諸国に拡大する可能性が出てきたからだ。イスラム教のトルコと、正教会キリスト教のギリシャとの長い敵対関係にも、火をつけることになりかねない。

 そのため、欧米の軍事同盟であるNATOは、8月ごろからセルビアに圧力をかけ、コソボから撤退するよう迫り始めた。その後はセルビア側の軍事拠点を空爆する、という警告にまでエスカレートした。

 だが、欧米からの圧力は、今一つ力のこもらないものだった。というのは、欧米はコソボのユーゴスラビアからの独立を支持できないからだ。もし、欧米がコソボの分離独立を認めれば、コソボはやがてアルバニアとの併合を模索するようになるだろう。そうなると結局のところ、ヨーロッパ内の国境線の引きなおしが起きることになる。これは、欧州内の他の国境紛争を再燃させかねない。

 しかも、コソボの分離独立を認めたら、スペインのバスク地方や、イギリスの北アイルランラド、イタリアの北イタリア地方などの分離独立運動を挑発することになる。「コソボの独立を認めたのなら、俺たちの独立も認めろ」と言えるからだ。欧州各国は、自国の保身を考えれば、コソボ独立を支持するわけにはいかない。

 コソボの独立を認めない以上、コソボはセルビアの一部という現状を追認することになるが、そうなるとセルビアがコソボの「反政府ゲリラ」を取り締まることに「待った」をかけるのは、「内政干渉」になってしまう。

 内政干渉には「大規模な人権侵害がある場合は、内政干渉にはならない」という不文律の例外があって、欧米諸国は「セルビアがコソボのアルバニア人の人権を侵害している」と主張し、介入の根拠としている。欧米の新聞がセルビア側の残虐行為を報じる記事を毎日のように流し続けるのは、この論理を補強するという意味がある。

 介入の根拠が人権侵害だと、セルビア軍とKLAとの衝突を引き離すことはできるが、問題の根本的解決に力を貸すことはできない。ミロシェビッチ氏はその辺のところをよく分かっていて、国際監視団のいないところで、セルビア軍に大攻撃をかけさせたりしている。

 今年2月にセルビア側がアルバニア人を虐殺して以来、コソボではもはやセルビア人とアルバニア人が仲良く暮らしていた以前の状態に戻ることはできなくなっている。コソボは独立もできず、昔の平和な共存にも戻れないというジレンマを抱えたまま、戦争状態が続いている。





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