金にまみれて行き詰まったオリンピック神話

99年2月9日  田中 宇


 筆者は最近、これまで書いた記事をもとに、本をまとめた。「神々の崩壊」というタイトルで、東京の風雲舎という出版社から出された。

 以前から筆者の記事を読んでおられる方は「神々の崩壊」というタイトルに見覚えがあるだろう。これはもともと昨年10月、アメリカのヘッジファンドLTCMの崩壊を機に書いた、国際金融問題に関する3部作の通しタイトルだった。

 ここで筆者は、ロシアの「市場経済化」と、金融の先物化・国際化という、冷戦後の世界にとって重要な二つの試みが、98年の夏に相次いで破綻の危機に陥ったことを解説し、冷戦後のひとつの時代が終わろうとしている、と書いた。

 ここでいう「神々」とは、世界で最も重要なヘッジファンドの一つだったLTCMを作った天才トレーダーやノーベル賞経済学者、IMFやFRB(アメリカの中央銀行にあたる機関)、アメリカ財務省などを動かしているアメリカの金融権力者たちを指していた。

 この3部作を書いた後、風雲舎から出版のお誘いがあり、どんな本を作れるか検討しているうちに、そうした「神々の崩壊」は、アメリカだけで起きているわけではない、というに気づいた。市場化、民営化、自由化、「人権」「民主主義」「環境」重視など、冷戦後の世界システムは、アメリカが1980年代に発明し、90年代に入って一気に世界へと広がったが、97年の東南アジア通貨危機あたりを境に、世界各地でこの新システムの機能不全や停止が相次いだ。

 「神々の崩壊」というキーワードは、アメリカの金融についてだけでなく、ここ1-2年、世界各地で起きている混乱について解説するためにも使えるのではないか。そのような視点で読んでみると、筆者がこれまでに配信した記事のかなりの部分が、いろいろな「神々」や「神話」の崩壊を説明していることに気づいた。それらをまとめれば、冷戦後の世界を俯瞰する一冊の本になると思い、出版することになった。

 オリンピックのスキャンダルについて書くことをしめすというタイトルを掲げながら、こんな私事から書き出したのは、理由がある。IOC(国際オリンピック委員会)の贈収賄疑惑を調べてみると、筆者が本に書いた「神々の崩壊」の構図が、ここにもあることが分かったからである。つまり、IOCのスキャンダルはある意味で、冷戦後の世界構造の中で起きた歴史的必然だったようにも思えるのだ。

●重鎮の暴露でスキャンダルが世界的話題に

 今回のIOCスキャンダルで問題になっているのは、オリンピックの開催地を決める立場にあるIOC委員の何人かが、開催候補都市の関係者から、各種のプレゼントや利益供与を受けていた、という疑惑である。

 2002年冬季大会の予定地であるアメリカ・ユタ州のソルトレーク市では、アフリカのカメルーンとリビア代表のIOC委員の子供が、ユタ州のカレッジに奨学金つきで入学できるよう取り計らいを受けたり、肝炎を患っているIOC委員に病院で3ヵ月間、高額治療を無償で受けさせたりした疑惑が浮上している。

 1998年に冬季大会が開催された長野に関しては、91年6月にIOCが投票で98年大会の開催地を長野に決定する1ヵ月前、IOC委員たちが長野に視察に来た際、本来の視察とは別に、委員たちを長期間、京都の高級ホテルに泊まらせて、芸者さんをつけて接待したことや、IOCのサマランチ会長に1万4千ドル(約150万円)相当の名刀をおみやげとして渡したりしたことが取り沙汰されている。IOCは内部規約により、一人当たり150ドルまでのおみやげしか受け取ってはならないことになっている。

 また2000年夏季大会の予定地であるオーストラリアのシドニーに関しては、93年9月に大会の開催地を決定するIOC投票の前夜、シドニー市の組織委員会が、ケニヤとウガンダ代表のIOC委員に、両国のスポーツ振興のための支援金という名目で3万5千ドルずつ渡したことが、贈収賄に当たるのではないかとして問題になっている。

 IOCがオリンピックの開催地を決める際、候補の都市の関係者から委員が賄賂を受け取っているという指摘は、何年も前からときおり浮上していたが、これまでは確たる証拠がなかったため、大きな問題とならずにいた。

 昨年11月、ソルトレーク市でIOC委員の子供への奨学金供与が問題とされたときも、最初はユタ州内の新聞やテレビで報じられる以上の広がりはなかった。ところがアメリカでは昨今、クリントン大統領の不倫疑惑に代表されるように、倫理に関する問題は、非常に重視されるようになっている。そのこともあって、12月に入ると、アメリカのメディアの全国的な話題となった。

 そのため12月9日、IOC本部は、疑惑に関する調査を行うことを発表した。だがその翌日、正式な調査結果が出るのを待たずに、IOCの重鎮の一人であるマーク・ホドラー氏が、96年のアトランタ大会、2000年のシドニー大会、2002年のソルトレーク大会の決定プロセスの中で賄賂のやり取りがあり、その合計額は100万ドル近くにのぼっている、と暴露した。

 これは、調査委員会を作っても、疑惑を徹底究明せず、形だけ調査したことにとどめておこうという考えが、IOC幹部の大勢を占めたことに対して、正義感の強いホドラー氏が憤り、翌日の暴露になったのではないか、と筆者は推測している。

 この暴露は、サマランチ会長によって「IOCを代表する公式コメントではなく、私的な発言だ」とされたものの、疑惑は一気に世界的な話題となった。日本ではマスコミ各社の取材が長野に殺到し、オーストラリアではシドニー大会の決定過程に対する徹底取材が始まった。

 IOCでは、16人の委員が疑惑の対象として調査され、そのうちすでに6人がIOCを除名され、1人が戒告処分を受けている。これまでに開催候補に名乗りをあげた世界各地の都市のうち、スウェーデンのストックホルムやカナダのケベック、イギリスのマンチェスターといった都市は、自分たちが合法的な誘致活動しかしなかったため、不正な活動を行った都市に開催権を奪われたのは不当だと主張し、不正を行った都市とIOCに対して、誘致活動資金を返還するよう求めた。

 また、南アフリカのケープタウンなどの関係者は、オリンピックの誘致活動のやり方を各地の都市関係者に伝授したり、誘致活動を代行したりする「誘致代理業者」から、「金を出してくれれば、IOCの投票の際、何票かを買収してあげる、との申し出を受けたが断った、と発表した。

●70年代までは清らかだったIOC

 オリンピック誘致をめぐる買収合戦が世界的規模で行われていることが明らかになったわけだが、オリンピックの運営が昔からおかしな状況だったわけではない。1970年代までは、むしろ逆に、オリンピックを開くと主催都市の財政に巨額の負債が残ることになるため、開催を敬遠する都市が多く、IOC委員たちは開催地を探すのに苦労することが多かった。そんな清らかな状態が大きく変わったのは、1984年のロサンゼルス大会からだった。

 IOCは今から105年ほど前、「近代オリンピックの父」と呼ばれるフランスのクーベルタン男爵によって設立された。アマチュアスポーツの振興を目的に、財力に余裕のある貴族やビジネスマンたちが、無報酬のボランティアとして委員を務める組織として作られた。組織の性格は、透明性や民主主義を必要とする公的機関ではなく、上層階級の人々がスポーツ振興という慈善事業のために集まったサロンのようなものだった。

 そのため、IOC委員を新任する際は、外部の人々の選挙などではなく、内部の委員たちの推薦によって決定される。委員には任期がなく、いったん委員になると80歳になるまで続けることができる。

 スキャンダルが発覚してからは、こうしたIOCの仲良しクラブ的なシステムが腐敗を生むのだと非難されている。だが70年代までは、開催してくれそうな都市を手弁当で回り、渋る市の幹部を説得して開催を決めるという地味な作業を続けていたわけで、その時代のIOCは「不正な金儲け」の場ではなく、「金持ちの道楽」の場であった。

 1970年代は、IOCにとって受難の10年間だった。1972年のミュンヘン大会では、中東戦争のとばっちりでイスラエルの選手がテロで殺され、オリンピックの政治リスクが高まった。1980年のモスクワ大会では、ソ連のアフガニスタン進攻を非難するアメリカなどが参加を拒否し、運営が難しくなった。

 資金面でも、1976年の冬季大会では、アメリカのデンバーにいったん決まりかけたものの、デンバーでは大会を開くと市の財政が大赤字になることに反対する人々が多く、結局デンバーは開催権を返上し、オーストリアのインスブルックにやってもらうことになった。同じ年の夏に開かれたモントリオール大会は、10億ドルの赤字を主催者に残すことになった。

 現在までIOC会長を務めるサマランチ氏は、そんな最中の1980年に会長に就任した。(もともとはスペインのスポーツ担当大臣だった) このままではオリンピックの運営が難しくなるばかりだと考えた彼は、一計を案じた。それはオリンピックの中に、大々的にビジネスを持ち込むことだった。

 スポーツ用品のアディダス、試合結果の統計処理を依頼していたIBM、観客に商品がよく売れるコカコーラやマクドナルドなどから金を出してもらう代わりに、「オフィシャルスポンサー」として認め、オリンピックのイメージを使って企業宣伝ができる体制を作った。

 企業がオリンピックの五輪マークを使うときは高額の利用権をとった。テレビ放映権を入札制とし、放映権からの収入を5倍以上に急増させた。こうした商業化の結果、84年のロサンゼルス大会はみごとに黒字化し、オリンピックの開催は開催地にとって儲かるビジネスに変身した。

 84年の夏季大会に立候補したのはロサンゼルスだけだったが、その後92年の大会を決める際は、6つの都市が名乗りを挙げた。92年大会を決めるIOC会議は85年にベルリンで行われたが、その際はオーストラリアのブリスベーンからは、委員たちに食べてもらおうと、飛行機いっぱいのラム肉とロブスターが空輸され、パリからも豪華な食事がパーティー用に持ち込まれた。オランダのアムステルダムはIOC委員がホテルから会場まで移動する際のバスを用意し、宣伝に努めた。

 そんな誘致合戦の結果、92年大会の開催地に選ばれたのは、スペインのバルセロナだったが、同市はサマランチ会長の故郷だった。

 この年にIOCは、委員が開催候補地からもらうプレゼントの上限額を150ドルとすることを決めたが、この規定は名目だけのものとなっていった。仲良しクラブだったIOCは不可避的に、腐敗しやすい体質を持っていた。

 94年から、IOCは夏と冬の大会を別々の年に開くようにした。(それまでは夏冬同じ年だった) これによって冬季大会が夏季大会の陰に隠れた目立たない存在ではなくなり、企業やテレビ局、そして開催地にとって、冬季大会もビジネスとして旨味の大きいものになった。

●改革の道遠いIOC

 こうしたオリンピックの商業化は、航空や通信といった、それまで利益を重視するビジネスではなかった公的サービスが、アメリカで民営化、商業化されていき、その動きが世界に広がっていった過程と、時期的に一致する。ロサンゼルスというアメリカの都市からオリンピックの商業化がスタートしたというのも象徴的だ。つまり筆者には、オリンピックの商業化は、いろいろな産業の民営化や自由化がアメリカから世界に広がった動きの中の一つであるように見える。

 さらには、アメリカを基点として始まったオリンピックの商業化がIOCの腐敗を生み、それが目にあまる状態になったとき、再びアメリカ(ソルトレーク)を発火地として不正たたきが始まり、アフリカなど発展途上国の委員たちを中心に狙い撃ちされて除名されたという経緯は、たとえばインドネシアが経済の自由化をする過程でスハルト前大統領の一族が不正蓄財に走り、それが目にあまるようになったとき、アメリカの支配下にあるIMFの政治介入によってスハルト政権が崩壊させられたという流れに似ている。

 このように考えると、このところ世界では自由化の歪みがあちこちで顕在化し、改革の必要性が叫ばれているのだから、その一つとしてIOCスキャンダルが吹き出し、オリンピックの運営が改革を迫られるのは、当然とも思える。

 IOC関係者の間では現在、今後のオリンピック開催地をどのように決めればいいか、検討が続いている。IOCはこれまで、全委員の投票で開催地を決めていたのを止めて、代わりにIOC委員8人と、外部メンバー7人の小委員会を新たに作り、そこで開催地を決定するという改革を決めている。決定権を持つ人の数を大幅に減らすことで、不正行為に対する監視をやりやすくするのが目的だが、これでは不十分だと言う人もいる。

 夏季オリンピックは、オリンピック発祥の地アテネで毎回開催するようにしてはどうか、とか、いっそのこと開催地を買い取り制にして入札で決めてはどうか、といった意見も出ている。また、疑惑を持たれたシドニーやソルトレークでの開催は中止すべきだ、という意見がある反面、今から開催地を変更すると、予定通りの時期に開けなくなるという懸念も出されている。

 IOCは3月中旬に、臨時総会を開く予定で、そこでサマランチ会長に対する信任投票が行われる可能性もある。サマランチ氏こそ引責辞任すべきだという意見が出ていることに対応するものだが、「サロン」であるIOCには、サマランチ氏と親しくしていた人々が委員になっているケースが多い。サマランチ氏を追い出そうとする人々の数は少ないわけで、不信任票が過半数を越えることは難しいとみられている。IOC改革の道のりは、遠いようなのである。

 

 


●IOCスキャンダル関連サイト

 ニューヨークタイムスの特集(英語)

 ソルトレーク・トリビューンの特集コーナー(英語)

 






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