驚きの多言語社会・台湾

1999年9月15日   田中 宇

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 私が8月下旬に台湾を訪れる前、メールをいただいた読者の一人に、71歳の羅慶飛さんがいた。台北に着いた後、羅さんに電話して、お会いすることになった。羅さんは、日本統治時代に教育を受けたため、流暢な日本語を話す。

 羅さんと最初に電話で話したとき、私が泊まっているホテルの電話番号を確認するのに、数字の「2」を「ふた」、「0」を「まる」とおっしゃった。2を「に」と言わずに「ふた」というのは、電話を通じて数字を間違えずに伝え合うときの言い方で、通信関係の仕事についている人が使う。私が3年前まで勤めていた共同通信でも、この言い方を使っていた。

 羅さんは、日本語で通信をする仕事に携わっていたに違いない、と思い、翌日お会いした際に聞いてみると、1945年に日本が台湾から撤退する直前、共同通信社の前身である同盟通信社の台北支社につとめ、日本からのニュースを受電する仕事をしていたという。私の大先輩にあたる人だったのである。

 しかも羅さんは、台湾人で最初に日本の敗戦を知った人の一人だった。終戦前夜、1945年8月14日の夜、羅さんはちょうど、夜勤の担当だった。午後7時ごろ、東京の本社からニュースが1本、入電した。

 「ポツダム宣言を受諾する、というニュースでした。内容はそれだけでしたが、すぐに敗戦だと分かりました。翌日の朝刊で、敗戦が報じられることになったのです。ところがその後、東京からのニュースの入電が、ぶっつり途絶えてしまいました」

 その後3時間近くたって、ようやく再び東京からの入電があった。今度の内容は、先ほど送ったニュースを取り消す、というものだった。「翌朝の新聞で、このことを報じてはならない。社外にニュースの内容を伝えてはならない。その代わり、明日正午に、特別放送を予定している、という情報から、東京から伝えられてきました」

 日本政府はいったん、8月15日朝刊で、日本の敗戦を知らせることにしたものの、その後、正午の玉音放送に切り替えたのだった。羅さんは台北で、通信用ヘッドフォンを通し、和文モールス信号によるニュース受電というかたちで、その歴史的な夜のできごとに立ち会ったというわけだ。

 羅さんは1944年11月、16歳で電信技術の職業学校「台湾逓信従事員養成所」を終了して台北電信局に就職、そこから同盟通信社に出向した。戦後、台湾の同盟通信は、中国国民党政府に接収され、国民党系の通信社である中央通信社の一部となった。

 戦後、羅さんは電信局に戻り、定年まで約50年間、台湾での電報の普及や、電報通信システムの現代化に尽くした。今は、台北から車で1時間ほど南に行った中レキ市(レキは土へんに歴という字)に住み、週末には5人の子供たちや、孫たちの来訪を受ける。

●客家と台湾

 羅さんは、客家(はっか)である。客家は、漢民族の中の一つの集団で、台湾のほか、中国大陸南部の福建省、広東省、江西省などに住んでいる。東南アジアに渡り、華人(華僑)となった人々もいる。

 客家はもともと、古い時代に中国の政治の中心地だった中原地方(陝西省など)に住む貴族だったが、その後の王朝の滅亡とともに、流民となることを余儀なくされ、福建省などの山間部まで来て、定住した歴史を持つ。各地でよそもの扱いされたため、「客人」という意味の「客家」と称するようになった。今も福建省の客家の中には、外敵から一族を守るため、円形の城砦のような集合住宅(客家土楼)に住んでいる人もいる。

 台湾の客家の多くは、羅さんの家がある中レキから少し南の、新竹から竹東にかけての台湾北部周辺と、台湾中部の苗栗、南部の屏東周辺に住んでいる。中国大陸から台湾に移民した最初の漢民族は、福建省南部に住むビン南人(ビンは門がまえに虫という字)だった。台湾の人々の6割強はビン南人で、彼らが話すビン南語は、今では台湾語と呼ばれている。

 客家は、現在の台湾の人口の2割強。彼らの台湾への移住が始まったのは、ビン南人より後だった。そのため、ビン南人が台湾西海岸中部の平野を占めたのに対して、客家はその外側の、山と平野の境目にある地域を開拓した。当時、そのあたりにはマレー・ポリネシア系の先住民族が住んでおり、彼らと戦って追い出すこともあった。中国大陸では、客家とビン南人は、住んでいる場所が近いが、客家語とビン南語は、全く違う言葉である。

 私が羅さんに会いに行った日はちょうど、羅さんの奥さんの葉素芝さんの一族が、年に一度、実家に集まって宴席を開く日だった。(台湾や中国では、結婚しても女性の姓が変わらない) 羅さんは「田中さんは、客家の村に行ったことないでしょう」と言って、私をこの宴会に連れていってくださった。

 葉一族の実家は、台北から車で約2時間の山の中で、「東洋のシリコンバレー」として知られる新竹のハイテク工業団地から、山の方にずっと入って行った、新竹県横山郷にある。

●国連のような多言語家族

 行きは、羅・葉夫妻の息子である羅吉昌さんが運転する乗用車で行き、帰りは、夫妻の娘である羅瑞媛さんの旦那さんが運転する車に乗せてもらった。その道すがら、羅さんは「私たちは、一つの家の中なのに、国連のようですよ」と言う。

 一族の中に、客家、ビン南人、外省人、そして先住民の人もいて、それぞれの母語が違うので、家族や親戚の中ですら、「国連のような」多言語社会になっているのだった。息子の羅吉昌さんの奥さんである邱麗容さんはビン南人、娘の羅瑞媛さんの旦那さんは外省人だった。もちろん家族だから、母語は違っても和気あいあいとしているが、言葉の混合ぶりが興味を引いた。

 たとえば、羅・葉夫妻は、両方とも客家なので、夫婦間の会話の中心は客家語だが、その中に良く日本語が混じる。客家語で話していたはずが、ある瞬間に羅さんが「そうそう、あれは何日だったかな・・・」などと言ったりする。運転している息子に道順を客家語で指示している羅さんが、道を間違いそうになると、葉さんが「そこは左ですよ」と言ったり。

 私に向かって言っているのではない。夫婦の日常会話の中に、何かの拍子にある瞬間だけ、日本語が入り込むのである。「今日は私がいるので、日本語を多めに話していますか」と尋ねると、羅さんは「そんなことはありません。いつもと同じです。自然に日本語が出てくるんです」とのことだった。

 羅・葉夫妻だけでなく、台湾人で、日本時代に教育を受けた70―80歳代以上の人々の多くは、夫婦や親しい友人どうしの会話に、日本語が混じる。その影響で、下の世代にも、ごく簡単な日本語なら、聞き取ったり話したりできる人が多い。だから台北では、若手ビジネスマンとの名刺交換の際、日本語で上手に自己紹介するので、てっきり日本語ができると思って話しかけると、英語で「実は日本語はできないんです」と照れ笑いされたりした。

 羅・葉夫妻は、ともに客家だが、客家の中にもいくつかの支族があり、イントネーションの異なる方言を話している。羅さんと葉さんは、支族が違うため、結婚当初は、お互いの会話で分かりにくい部分があったという。

 羅さんは、客家人地域の中心にある竹東の学校を卒業した後、台北に出て就職した。竹東ではビン南語(台湾語)をほとんど聞かなかったが、台北では人々の言葉は、ほとんどビン南語だった。そのため最初は買い物をする時に苦労したが、何年か台北に住むうちに、ビン南語も話せるようになったという。

●客家語の家族の会話に混じる日本語

 羅さんと、息子の吉昌さんとの会話は、客家語が中心だが、時に北京語が混じる。羅さんと、息子の妻である邱麗容さんとの会話は、ビン南語と客家語が混じっていた。さらに帰りは、運転した娘の瑞媛さんの夫である張華宝さんが外省人で、公用語である北京語と、母語の広東語しか話せないので、家族の会話は北京語となった。

 外省人とは、戦後、国民党とともに大陸からきた人と、その子孫のことで、張さんは台湾で生まれた外省人2世である。外省人の多くは、台湾語を話さない。来年の総統選挙に立候補する宋楚瑜氏が、外省人なのに台湾語が話せることを「台湾を愛している」という宣伝材料にしているほどだ。

 台湾では、戦後の教育が北京語のみだったので、若い民主化後の世代は、会話の中心が北京語で、台湾語を使うのは、老人と話すときだけ、という傾向が強い。半面、60歳前後以上の台湾人(本省人)の多くは、北京語の教育を受けていない。羅さん自身も、北京語を学んだことはなく、さほど流暢ではない。とはいえ羅さんは、「孫」の世代と話すときは、すべて北京語を使っていた。

 「台湾は、多民族の国際社会を先取りしていますね」と私が言うと、羅さんは「でも私たちは、自分から望んでそうなったわけじゃないんです。日本に統治されたから日本語を勉強しなければならなかったし、その後は中国人がきたから、北京語を勉強しなければならなかった。やむなく、こうなったのです。自分から勉強したくて、外国語を学んだ人とは、立場が違います。これは、台湾人の悲哀です」と語った。

 これまで、台湾に住む人々の民族的なアイデンティティは、ビン南人、客家、外省人、先住民など、多様に分かれていたが、民主化以前の約40年間、国民党政府によって、北京語以外の言葉を抑圧する国語政策が続いたことに加え、台湾全島で都市化と文化の均一化が進んでいる最近では、状況は急変している。

 今では台湾の80%以上の家庭に、100チャネル近いケーブルテレビの線が来ているので、田舎に住んでいても、台湾どころか全世界のニュース、芸能などに接することができる。今後ますます、北京語のみを使い、客家だビン南人だ外省人だという帰属意識の薄い「台湾人」が増えていく可能性が大きい。

 半面、最近では野党の要求で、台湾政府の教育部(文部省)が、北京語以外のビン南語、客家語、先住民言語の語学教育を、小学校で選択制の必修科目として新設する準備を進めている。

 北京語のみの単一言語社会に向かう流れと、多言語社会を維持して多様なアイデンティティを守ろうとする流れが交錯しているわけだが、いずれも人々の自由意思に基づいている点が、これまでの「悲哀」の歴史とは異なっている。「台湾人の悲哀」がこれで終わるのかどうか、それは台湾をとりまく国際情勢にも関係しているだろう。

 
「台湾の客家に学ぶ」に続く。

 


 

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