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バイキングのアメリカ探検

2000年7月3日   田中 宇

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 北大西洋に浮かぶ氷河と火山の島「アイスランド」は、世界最古の議会を持つ国でもある。

 この島に人が住み始めたのは西暦870年のことで、ノルウェーなど北欧からバイキングが入植し、牧畜などを始めた。それから60年後の930年、有力者たちが相談し、島民の意思決定機関として「アルシング」(Althing、民会)と呼ばれる議会を設立した。代議士が毎年一回集まり、法律の制定や紛争の調停について決議する機関だった。今では議会政治の生みの親のように言われているイギリスが、まだどっぷりと封建制度の中にあったころである。アルシングは現在も、アイスランド共和国の議会として機能している。(1院制、63議席)

 島の伝説によると、設立から約50年後の982年に開かれた議会では、一人の男性に対する追放決議が下された。島の西側に住んでいる「赤毛のエリック」(Eric the Red)という男が、放牧している牛の所有権をめぐって近所の人と喧嘩した挙げ句、相手を殺してしまったため、罰として3年間、島から追放するという決議が出された。

 エリックに対しては、単にどこかへ行ってしまえということではなく、一つの任務が命じられた。アイスランドから西の方へ航海を続けると、氷河におおわれた別の大きな島があるという未確認情報があるので、実際に行って調べてこい、という要請だった。

 アイスランドに入植した人々(バイキング)は、航海が得意な人々だった。彼らは北欧を拠点に、8世紀ごろからイギリスやフランス、バルト海などの沿岸を海賊として荒らし回り、フランスのノルマンディ(北欧人の国という意味の地名)からイギリスに攻め入ったブリトン人も、彼らの一派であった。

 彼らは野蛮なだけの人々ではなく、商人でもあった。ロシアの大河を下り、黒海やイスタンブール(コンスタンチノープル)から地中海、中東のバクダッドあたりまでを行き来し、貿易を展開した。貿易ルート上にある町キエフに、現在のロシアとウクライナの原型となる国家「キエフ・ルーシ」を建国したのも彼らである。(その後スラブ人が国王の座を引き継いだ)バイキングはまた、ノルウェーから西に航海し、今のイギリス北部の島々から、アイスランドへと入植地を広げていった。

 バイキングはアイスランドと北欧本国との間をひんぱんに行き来していたが、遭難や漂流する船もあり、その中の一隻がアイスランドから西に流され、未確認の島を見つけた。赤毛のエリックは、それを確認する探検に行くことになった。探検は3年かかったが、彼は大きな島を見つけ、それを「グリーンランド」と名づけて帰ってきた。

 故郷に戻ったエリックは、自らがグリーンランドの指導者となって新しい入植地を作ろうと考え、入植希望者を募集して回った。グリーンランドは「緑の土地」という意味だが、実際には氷河と岩ばかりで、緑の植物はほとんど生えない。にもかからわずこんな名前をつけたのは、入植者を増やそうとするPR作戦だった。エリックが探検から戻った翌年の986年の夏には、最初の入植者が25隻の船に分乗し、グリーンランドに向かった。厳しい航海を終えて無事に目的地に着けたのは、そのうち14隻だけだった。

▼2代目探検家がアメリカに上陸

 航海の難しさに加え、グリーンランドの厳しい天候にも悩まされながらも、一団は島の南東部に入植地を作り、その後10年ほどの間に、現在のグリーンランドの中心地となっているヌークなど、西海岸へも入植を拡大した。今はグリーンランドの多数派住民となっているイヌイット(エスキモー)の人々が本格的に移住してくる200年ほど前のことである。

 新しい入植者は次々と到着したが、その中には途中で難破しかかって漂流する船もあった。ある船はグリーンランドに着く前、西にかなり流されたが、そこで新たな別の大きな島を見つけた。それは現在のカナダ領バフィン島と思われるのだが、その島の発見は、エリック一族を新たな探検に駆り立てることになった。

 エリックは入植地の権力者として忙しかったので、長男のレイフ・エリクソン(英文では Leif Ericson、アイスランド語では Leifur Eiriksson)が探検に旅立つことになった。997年のことだった。エリクソンは今のバフィン島を発見して「ヘルランド」と名づけた後、南下して別の陸地を見つけ「マークランド」と名づけた。現在のカナダ北東部のラブラドル地方ではないかと考えられている。

 その後、エリクソンはさらに南下して「ヴィンランド」と名づけた場所まで行き、そこにさらなる南下のための前線基地を作った後、グリーンランドへと戻った。3年がかりの探検から戻ったのは、ちょうど西暦1000年であった。コロンブスがアメリカ大陸に到達したのは1492年であるが、それより約500年前にバイキングの一行が、ヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸の地を踏んでいたことになる。

 エリクソンの帰還後、160人の男女が3隻の船に乗り、グリーンランドの入植地から新天地を求め、ヴィンランドの前線基地へと航海していった。いったん前線基地に居を構えた後、さらに南下したどこかに入植に適した土地を探し出し、引っ越そうという計画だった。だが、北アメリカにはすでにインディアンが住んでいた。両者の間で激しい戦闘が何回か起きた後、ヴィンランドの前線基地は放棄され、人々はグリーンランドに引き返して行った。

 その後、グリーンランドの入植地は約400年にわたり維持された。だが15世紀に入ると、地球規模で気象が変わっり、北大西洋地域では気温がかなり下がった。グリーンランドで人間が生きていくことは難しくなり、バイキングたちも入植地を放棄し、アイスランドなどに戻った。

▼コロンブスの謎

 ヨーロッパ人で初めてアメリカ大陸に行ったのが西暦1000年のエリクソンだったのなら「コロンブスのアメリカ大陸発見」は、嘘を教えられていたのだろうか。

 高校の世界史の授業で使う資料である「標準世界史年表」(吉川弘文館)を見ると「1000年 ノール人、ヴィンランド到達」「1003年 ヴィキング、ヘルランドに到達」と書いてある。エリクソンがコロンブスより先にアメリカ大陸に行ったことは、すでに学校で教える「史実」となっているではないか。

 実は「ヴィンランド」「ヘルランド」という地名がどこなのか、学問的に確定できなかったことに問題があった。バイキングがアメリカ大陸に上陸したことは、アイスランド人が口述で言い伝え、後に書物となった伝説に基づいている。だが伝説には「ヴィンランド」などの位置について明確な記述がない。

 場所がはっきりしていれば、学者が遺跡を確認したりすることで、史実かどうか調べられる。だが場所が分からなければ確認できないため、バイキングの探検は「歴史」ではなくて「伝説」にとどまり、近代の歴史学では、コロンブスが最初だということになっているのだった。

▼ヴィンランドを探す

 この状態に納得できなかったのが、北欧の歴史を研究する学者たちだった。彼らは「ヴィンランド」(アイスランド語でWinlandiae、英語だとVinland)という地名を「ブドウの里」という意味だと解釈し、野ブドウが採れる地域だとしたら、その所在地は、アメリカ東海岸のニューヨークから北にかけての地域だと推定した。

 アメリカ東海岸の北端にあるメーン州では、インディアンの居住地跡から11世紀のノルウェーの貨幣が見つかった。だがバイキングがここまで来たのではなく、コインはインディアンがバイキングとの交易の代金として受け取った可能性が大きかった。その他、一帯で見つかったいくつかの遺跡がバイキングのものかもしれないと騒がれたものの、決め手となる確証はなかった。

 そんな最中の1960年、イングスタッド(Helge Ingstad)というノルウェーの学者夫妻が、17世紀にアイスランドで作られた地図の西端に「ヴィンランドの岬」という地名が書かれているのに気づいた。それはカナダ東端のニューファンドランド島だった。

 イングスタッドはこの地図を見てピンときた。カナダの学者が以前「VinlandのVinはブドウという意味ではなく、北欧の古語で牧草地を表わしており、ブドウが採れる地域に限定する必要はない」と分析し、寒くてブドウが採れないニューファンドランド島にヴィンランドがあったのではないかと指摘していたからである。

 イングスタットはニューファンドランド島北部の漁村ランスオーミドー(L'anse aux Meadows)を訪れた。この地名は「牧草地がある入り江」という意味である。土地の古老に「このあたりに風変わりな古い遺跡はありませんか」と尋ねると「ある」という。8軒の家の跡からなるその場所は従来、インディアンの居住地跡と思われていたが、グリーンランドに残るバイキングの入植地とそっくりだった。

 その後8年間にわたる発掘で、イギリス製と思われるボタンや、バイキングの女性が使う糸車、鍛冶屋の跡(インディアンは鉄を作る技術を持たなかった)などが見つかり、エリクソンが設立したヴィンランドの前線基地は、ほぼ間違いなくそこだったことが、明らかになった。

 イングスタットらは、ゴシップ的な論争に巻き込まれるのを防ぐため、この場所がヴィンランドであり、コロンブスより500年前にバイキングがアメリカを訪れていたということについて、声高に主張することを避けた。その結果、今も世間一般ではコロンブスがアメリカの「発見者」なのだが、歴史学的にはエリクソンによる西暦1000年の探検が、ヨーロッパ人による初めてのアメリカ上陸となった。

▼1000年目の子孫の航海

 今年は、そのエリクソンの探検からちょうど1000年目にあたる。アイスランドには、今もエリクソンの直系の子孫が生きている。ガンナー・エガートソン(Gunnar Marel Eggertsson)というその人物は今年、エリクソンが使ったのと同じ船を復元し、それに乗ってアイスランドからグリーンランド、アメリカ大陸へと、1000年前と同じコースをたどって航海することにした。

 このイベントは、観光客の呼び込みと「コロンブスではなくエリクソン」という史実を広めたいアイスランドやグリーンランド、カナダの政府も支援するところとなり、船は6月17日、アイスランドの建国記念日に、首都レイキャビクを出港した。7月15日にグリーンランドに到着する予定なので、今は北大西洋の洋上を帆走中であろう。その後ニューファンドランド島を経て、10月にニューヨークで航海を終える計画だ。

▼南米文明の独自性を突き崩そうとする人々

 ところで、バイキングのアメリカ探検をことさらに強調するのは、ヨーロッパ人がマヤ、アステカなど中南米の文明に対して影響を与えたのだという理論展開に協力することになるので気をつけた方がいいと、ある中南米研究家から警告されたことがある。

 マヤやアステカ、インカなどの文明は、アメリカ先住民が独自に作り上げたものと考えられてきたが、欧米には「自分たちの系統の人種以外が、偉大な文明を作れるはずがない」と考え、何とかして南米文明の独自性を突き崩そうとしてきた人々もいるという。南米の文明が発達した11−15世紀より前に、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に来ていたという史実は「ヨーロッパ人が南米文明に協力した。それなしには高度な文明は作れなかった」という人種差別的な歴史観を補強しかねない、という見方であった。

 こうした警戒が正しいか判断しかねるが、このような観点も存在するということで、紹介しておくことにした。



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