家内工業の街から頭脳都市に変わりゆく香港 96/07/11

 来年に迫った中国への返還を前に香港では、小規模な家内工業など製造業中心の経済から、貿易やマーケティング、金融などのサービス産業が中心へと変わりつつある。
 香港は1940年代までは、港町というだけでその他に目立った産業がなかったが、挑戦戦争やベトナム戦争などをきっかけに工業が盛んになった。違法建築のビルの部屋に機械を置き、縫製業や印刷業、金属やプラスチックの加工業などが行われだした。香港フラワーや玩具が香港の名産品として有名になったのも、このころだ。

 中国が開放経済に突入した1980年代の始めからは、この工業部門が中国の広東省に移り、香港側は委託生産のかたちをとるようになった。中国南部の経済発展のかなりの部分は、この香港からの工業移転により産み出されたものだ。広東省では、香港の人口にほぼ匹敵する500万人が、香港企業とその下請け工場に雇われている。
 香港経済はその間、次第に金融やサービス分野に特化していった。香港を取り返すことによってトウ小平を始めとする中国政府が欲しかったものは、香港企業が持っているこのノウハウだった。

 最近では中国にも企業経営のノウハウが蓄積され、海外の企業と直接取引ができるようになってきている。中国返還後しばらくしたら、香港の必要性は失われてしまうのではないか、と心配する向きもある。
 だが現在でも、たとえば上海から直接アメリカに輸出されている工業製品でさえ、その輸出の背後には、ほぼ必ず香港の存在がある。この輸出の決済は香港にある銀行口座を介して行われているはずだし、米国の買い手は香港にある事務所で上海からの買い付けを決定しているか、もしくは香港企業がこの売買の仲介をしているといったケースがほとんど。上海の企業の資金調達も、香港での行われる場合が多い。
 こうした香港の対中ビジネスに関するノウハウは一朝一夕に確立されたものではなく、東京やシンガポール、マニラなどにオフィスを置いても、実現できるものではない。

 しかし一方、中国返還後に重要なものが失われる可能性が非常に大きい。自由な情報流通である。香港では現在まで、中国幹部の動向やその腐敗ぶりから民主化運動家の動き、農民や少数民族の一揆まで、中国に関するあらゆる情報が新聞やその他さまざまなメディアを通じて流れている。この自由な流れは来年以降、急速に失われる可能性が大きい。最近、香港問題の中国の代表である香港マカオ弁公室の魯平氏が、しきりにその問題をとりあげて香港のメディアに警告、メディア側の反発を招いている。自由な情報流通が失われると、香港の重要な役割の一つが失われる。この点では香港の将来は暗いということになる。
 なお本文は、7月10日付けフィナンシャル・タイムス海外版に掲載されている記事を一部参考にした。