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パキスタンの興亡

2001年3月26日  田中 宇

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 パキスタンという国は、英領インドのうちイスラム教徒が多い地域が分離し、ヒンドゥ教徒主体のインドとは別の国として1947年に独立した。だが「イスラム教徒の国」というアイデンティティを前面に立てて作られたわりには、指導者の多くはイギリスで教育を受け、イスラムの価値観よりヨーロッパの価値観に親しみを持っていた。

 植民地支配から脱却するためにイスラム諸国がとり得た選択肢は2つあった。一つは、ヨーロッパ風の近代国家を作ろうとする「西欧化」や、その変化形である「社会主義化」の方法。もう一つは、イスラム教による国家運営を復活させる「イスラム主義」または「イスラム復興」の道だった。パキスタンの場合、建国の理念としては「イスラム主義」に近かったが、指導者たちは「西欧化」や「社会主義」を信奉する人々であり、二つの道のどちらを行くか明確にしにくかった。

 そのため、パキスタンの政治は揺れ動いた。たとえば1971年に大統領となったアリ・ブットは、社会主義を進めようとしたが、イスラム聖職者らの反対に遭い、77年には選挙を機に国内が混乱し、イスラム主義を打ち出したジア・ウル・ハク将軍がクーデターでブットから政権を奪い、戒厳令を敷いて自ら大統領に就任した。ハクは1979年、イスラム法の導入を進めるとともに、野党となって反政府運動を続けていた政敵ブットに対する死刑判決を裁判所に出させ、処刑してしまった。

 当時はちょうど、イランでイスラム革命が起き、テヘランの大学生らがアメリカ大使館に人質をとって立てこもり、イラン政府がそれを支援する事件が起きたころだった。アメリカ政府はイスラム原理主義に対する敵視を強め、ジア政権のイスラム主義にも、疑念の目を向けていた。ジアがブットを処刑したことや、秘密裏に核兵器を開発していたことも欧米から非難を受け、アメリカは79年春にはパキスタンへの経済援助を停止した。

▼アフガン侵攻のおかげでアメリカの支援が増強

 ところが79年に、隣国であるアフガニスタンにソ連が侵攻したことで、パキスタンは東西冷戦の最前線に立たされることになった。欧米諸国にとって、パキスタンを通じてアフガンゲリラを支援することが重要なことになり、ジア大統領が独裁的でイスラム主義だということには、欧米も文句を言わなくなった。ソ連のアフガニスタン侵攻を機に、パキスタンはアメリカにとって重要な同盟国に変質した。

 ソ連侵攻後、アメリカCIAとハクとの間で、ムジャヘディン・ゲリラ支援についての交渉が持たれたとき、ハクは二つの条件を出した。その一つはゲリラに対する支援はアメリカが直接行うのではなくパキスタンを通すこと、もう一つはカシミールをめぐるインドとの紛争でパキスタンを支援することであった。

 冷戦遂行を優先するアメリカは、ジアが出した条件をのみ、巨額の軍事援助をパキスタンに与えた。アメリカから届いた武器は、パキスタンの情報機関ISIによって、ムジャヘディンの各派閥に対して配分され、パキスタンの指示通りに戦って成果を挙げたムジャヘディンの派閥には、より多くの武器が分配された。

 ISIは、アフガン人が外部勢力の言いなりにならない人々であることを知っていたから、武器の供給を使って彼らをコントロールする方法をとった。ISIはアフガンゲリラの中で7人のリーダーを選び出し、この7人を通してしか、武器の配布や軍事訓練の申し込みを受けないことにした。これが「ムジャヘディン7派」である。7人も置いたのは、ゲリラが一人のリーダーのもとに団結し、パキスタンの言うことを聞かなくなるのを防ぐためだった。

 アメリカ新兵器が届く際は、まずパキスタンの軍人がアメリカ軍から訓練を受け、その後でパキスタン人がアフガン人を訓練する、という方法が取られ、パキスタン軍もアメリカの新兵器を使えるようなシステムが組まれた。アメリカからの軍事援助の一部は、インド軍と対峙するカシミールの前線にも送られた。

▼ムジャヘディンはわざと負けさせられた?

 ムジャヘディンはアメリカの軍事支援を受けたものの、なかなかソ連軍に勝てなかった。アフガン戦士たちは、供給された武器を山腹の洞窟などに貯蔵し、空爆を受けても負けない状況を作ったが、地上からソ連のヘリコプターに向かって機関銃を撃っても、距離が遠いため、なかなか当たらなかった。

 戦略の行き詰まりを破ったのは、アメリカが開発し、1986年からアフガニスタンの戦場に供給された小型ミサイル「スティンガー」だった。これは、ヘリコプターや戦闘機のエンジンなどの熱源を標的としてとらえ、そこに向かって飛んでいく赤外線追尾型ミサイルである。

 重さ15キロ、長さ1・5メートルと、肩に背負って運べる携帯型なので、アフガニスタンのような山岳地帯のゲリラ戦にうってつけだった。スティンガーの登場で、ソ連軍の被害は爆発的に増え、ソ連軍は撤退を余儀なくされた。88年から始まったソ連の撤退は89年2月に完了し、カブールにはソ連の傀儡であったナジブラ政権が残された。多くの人々が、ムジャヘディンがカブールに進撃し、ナジブラ政権を倒して新政府を樹立する日は近いと予測した。

 だが、ソ連の撤退終了の翌月、ペシャワールからカブールに向かう幹線道路の中間点にある町ジャララバードを総攻撃したムジャヘディン連合軍は、ナジブラ政権軍に反撃され、大敗してしまった。その後ムジャヘディンはなかなか勝つことができず、3年後の92年になって、ナジブラ政権軍の一部を率いていたドスタムという将軍がムジャヘディン側に寝返った後にようやく、ナジブラ政権を倒して首都カブールを占領することができた。

 ムジャヘディンがなかなか勝てなかったのは、山岳地帯のゲリラ戦の訓練しか行っておらず、平地の都市を攻める能力に欠けていたからだという説明があるが、それだけではなかった。ジャララバード戦は、アメリカとパキスタンの軍事専門家たちが戦略を練り、攻撃命令を出したものだった。

 つまり、アメリカとパキスタンが、わざとムジャヘディンを負けさせた可能性がある。そうだとしたら、その動機は、独立心の強いムジャヘディンが、アメリカから供給された膨大な武器を保持したままアフガニスタンを統一したら、アメリカやパキスタンの言うことを聞かなくなると懸念されたからであろう。

▼謎の飛行機事故で死んだ大統領

 そもそもパキスタンがムジャヘディンを支援した背景には、アフガニスタンから中央アジアにかけてのイスラム教地域に影響力を拡大しようという、ジアウル・ハク大統領の野望があった。だがハク大統領は、ソ連軍の撤退がほぼ決まった88年8月、原因不明の航空機事故で死んでしまった。

 ハク大統領は国内に敵が多い人で、暗殺されぬよう、なるべく首都イスラマバードから出ないようにしていたのだが、アメリカの要請を受け、アメリカが開発した新型戦車を使った軍事演習を見に行った帰りに、専用飛行機が墜落した。

 ハク大統領ら機上の人々は「遺体が判別できないほどに焼失していた」と発表され、検死解剖がなされなかったが、一方で大統領の所持品だったコーランが無傷で残ったことが報じられた。遺体の脇にあったコーランは「神の思し召し」によって無傷だったのに、遺体は検死解剖をしても意味がないほど損傷していたというのだが、これはどうもウソ臭い。遺体を解剖し、その結果が発表されるとまずいことがあったと勘ぐられてもしかたがない。

 ISIの元幹部が書いた暴露本「The Bear Trap」によると、その後の調査の結果、コックピットに毒ガスが仕掛けられ、飛行してしばらくするとガスが吹き出てパイロットが死亡し、墜落した可能性があることが分かったが、この調査結果は伏せられた。その手の毒ガスは、アメリカCIAかソ連のKGBしか持っていなかった。

 KGBの仕業なら、アメリカは事故原因を徹底調査するだろう。ところが実際には、事故直後の検死すら差し止められてしまった。つまり、この事故にはアメリカが関与していた可能性がある。

 ハク大統領は陰謀のにおいを感じたのか、墜落した大統領機に乗る直前、同じ軍事演習を見に来ていたアメリカ大使を誘って大統領機に同乗させており、大使も一緒に死んでしまった。事件後、アメリカFBIの捜査官は大使の死を調査するためパキスタンに行こうとしたが、上層部からの指令で調査を差し止められた。

▼冷戦終結で用済みにされたパキスタン

 アメリカがハクの死に関与していたのなら、その理由は何か。ここで思い出すのは、ソ連の侵攻より前には、アメリカはイスラム主義のハクを嫌っていたことである。

 ソ連のアフガン撤退により、アメリカにとってはイスラム主義運動の広がりが西アジアでの脅威の中心となったが、ハクはまさにイスラム主義を利用して、アフガニスタンから中央アジアへと覇権を広げることを狙っていた。ソ連の撤退により、ハクがアメリカにとって仲間から敵へと変質しつつあるまさにその時、ハクは死んだのだった。

 ハクの死後、選挙でパキスタンの権力を握ったのは、ハクに殺されたアリ・ブット前大統領の娘、ベナジール・ブットだった。ブットはイスラム主義からの離脱を目指したから、ブット政権誕生の2ヶ月後に起きたジャララバード攻防戦で、パキスタンとアメリカがムジャヘディンに負けるような戦略を命じたとしても不思議はなかった。

 冷戦の終結とともに、ハクもムジャヘディンも「用済み」にされたのではないか。私にはそんな風に感じられる。



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