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フジモリと日本

2001年8月27日   田中 宇

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 この記事は「フジモリ政権の本質」「続・フジモリ政権の本質」の続きです。

 以前、南米のボリビアに行ったとき、日系二世の青年たちと話す機会があった。戦前から戦後間もなくにかけて日本から南米への集団移民が多かったが、私が会ったのはその人々の子供たちで、スペイン語だけでなく日本語も話せるが、読み書きはスペイン語の方が得意という人が多かった。

 飲みながらの話で、ややぶしつけな問いも発することができると思ったので、青年の一人に「あなたがた日系二世の人たちというのは日本人ですか。それともボリビア人ですか」と尋ねてみた。すると「私たちは日本人でもあるし、ボリビア人でもあります」という答えが返ってきた。驚いたことに、彼は日本とボリビアの両方のパスポートを持っており、まわりの日系青年たちも同様の状態だという。

 日本やアメリカに行くとき、ボリビアのパスポートだと入管で執拗に調べられるが、日本のパスポートだとノーチェックなので、そっちを使うという。逆に中南米の近隣国に行くときは、ボリビアのパスポートの方がスムーズなのだそうだ。

 彼が国籍選択を迫られる20歳を超えていることを確認した上で「日本は二重国籍を認めていないのに、どうして2枚のパスポートを持てるんですか」と尋ねると「本当はダメなんでしょうが、日本大使館に行くと日本のパスポートをもらえるし、ボリビアの役所に行けばボリビアのパスポートがもらえます。パスポートを2枚持っていないか相互に照合されることはないみたいです」という。

 日本とボリビアの外交関係は良好なので、日本大使館がボリビア政府に問い合わせて日系人の二重国籍状態を調べることは難しいことではないはずだ。それが行われていないということは、日本政府は日系人に対して二重国籍状態を黙認しているのではないかと思われた。

▼二重国籍でもおかしくない日系人

 南米に移民した日系人の歴史を考えると、日本政府が二重国籍を黙認しても彼らを「日本人」として扱いたいと考える背景が推察できる。戦前と戦後では事情が違うが、戦後の場合、日本は海外に領土を拡張することができなくなり、代わりに南米諸国など移民を歓迎していた国々に積極的に国民を派遣し、彼らがその国に貢献しつつ定住し、何がしかの影響力を持つことで、日本としては植民地支配のような「悪」とされる手段をとらずに国際的な影響力を拡大することができる、と日本政府は考えていたふしがある。

 その後、日本は異例の経済成長を続ける半面、南米は政治経済が不安定で発展が遅かったため、日本にとって南米諸国が持つ意味が減ってしまい、南米への移民も国家的事業ではなくなった。しかし、当初の考え方に基づいて南米に移住した人々を見捨てることはできず、二世、三世になっても日本人として尊重し、移住した先の南米の国籍が必要な人々には、二重国籍を黙認するという特別な対応になったと考えられる。

 ボリビアの日系人が二重国籍を認められるとしたら、隣国ペルーの日系人も同様の状況だろう。ボリビアと同様、ペルーも移民を多く受け入れてきた国なので、もともと二重国籍には寛容だ。ペルーには、中華人民共和国とペルーの2つの国籍を持つ中国系の国会議員もいる。

 1996年、チャネル2というテレビ局がフジモリ政権の人権侵害を暴露する報道をしたため、経営者が交代させられたが、このときフジモリ氏は、チャネル2の経営者がイスラエルからの移民であることを利用して「彼はユダヤのスパイだ」などと非難して経営者のペルー国籍を剥奪して国外追放し、経営権はモンテシノス配下の者に引き渡された。フジモリ氏は、その2年後に自分自身が移民の立場を使って日本に亡命することになるとは思ってもいなかったに違いない。

 そう考えると、日系二世であるフジモリ元大統領の国籍問題にも、一般的に論じられていることとは別の視点でとらえることが必要だと気づく。フジモリ氏は昨年11月に日本に亡命した後「私は日本人だ」と主張し、日本政府もフジモリ氏を日本人だと認定した。

 それに対して「二重国籍を認めない日本の方針に反している」として日本政府を批判する声が大きいが、南米の日系人が日本政府にとって事実上、二重国籍禁止の原則を超えた特別な存在であるとしたら、この批判は的外れだということになる。

 「なぜ日本政府は日系人に対して特別な取り扱いをしていることを明言しないのか」という批判も出そうだが、そんなことを日本政府が明言したら、南米各国に住んでいる日系人の立場を無用に悪化させることになる。外国に移民した人々に対する本国政府の発言というものは、移民した先の国の世論を考えると、慎重にした方が良いのだといえる。

▼亡命制度を認めないアメリカ

 フジモリ氏についてまず考えるべきは国籍のことではなく、彼が大統領時代にやったことをどう評価するかということだ。ペルーの安定と発展に貢献したのは確かだが、左翼ゲリラ関係者ではないと分かっている人々をゲリラとして殺した疑惑や、去年の大統領選挙で不正をしたと指摘されていることについては、真相究明がなされた上で、フジモリ氏に責任をとってもらうのが筋かもしれない。

 ただし、中南米の政界は伝統的に日本とは比べものにならない厳しいルールなき戦いの世界である。フジモリ氏の行為は中南米の政界の基準のもとに評価されるべきだ。そう考えると、日本のいくつかの新聞が書いた「フジモリが潔白だと言うのなら、ペルーに帰って法廷で正々堂々とそれを示すべきだ」という主張には、底の浅さを感じる。

 政治の戦いというものは古今東西、勝っているうちに悪いことをしても罪に問われず、負けると急に強烈に断罪され、政治上の「正義」とはもともと歪んだものである。だから、中南米などでは政争に敗れた政治家には「亡命」という身の処し方が許されていた。そのルールから考えると、フジモリ氏の日本亡命は認められても良い。

 一方、最近のアメリカは「亡命」という政争の終わらせ方を認めず、政争に敗れた政治家にとことん責任をとらせる新しいルールを、世界に定着させようとしている。チリのピノチェト元大統領が母国に強制送還させられたのもその例だ。ヨーロッパでは、ユーゴスラビアの大統領だったミロシェビッチ氏が、失脚後、国際法廷に引っぱり出されて裁かれる事態になっている。

 この手の「国際法廷」は、構造的な大欠陥を抱えている可能性がある。政争や戦争に勝った側が、負けた側を裁くとき、勝った側は「公正さ」を装いつつ、実は自分たちに都合の良い判決が出す傾向が強くなるからだ(この意味では「東京裁判」についても再評価した方が良いとする日本の右派勢力の主張には一理ある)。一般に、勝った側が負けた側に対してふりかざす「正義」の言葉は、疑って聞いた方が良いということだ。

▼日本を攻撃したい人々には格好の口実

 今後、ピノチェトやミロシェビッチのように、フジモリ氏にも「人道に反する罪」が着せられ、ペルー一国内の問題を超え、人類全体として裁くべきだという主張が強くなる可能性がある。アメリカがペルー新政権にお墨付きを与えないとその主張が大きくなっていかないが、それが現実になった場合、日本がフジモリ氏を抱えていることは、日本を攻撃したい人々に格好の口実をまた一つ与えることになる。

「日本は、虐殺犯で腐敗した政治家フジモリをかくまい、先の戦争責任も認めない人権意識の薄い国で、かわいい鯨たちを残虐に殺す非道な奴らだ」などという主張が出てくるかもしれない。そうなると、それに反発して日本の国民感情の「民族化」も進み、右派政治家への支持が増えることになる。

 フジモリ氏は今年2月、東京で何人かの日本の国会議員らと会食し、出席者たちはフジモリ氏を見捨てずに守ることを約束した。集まったのは東京都知事の石原慎太郎氏ら右派の政治家だったが、それはフジモリ氏が「日本精神」を持っていたからではなくて、日本がフジモリ氏を抱えると右派政治家が得をするからであったと考えられる。



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