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よみがえるパシュトニスタンの亡霊

2001年10月15日   田中 宇

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 この地球上には、国家の統治が及ばない場所もあるということを知ったのは、去年パキスタンに行ったときだった。パキスタンのペシャワールから西へアフガニスタンの方向に向かうと「部族地域」(Tribal Area)と呼ばれる地域に入るが、そこでは国道とその両側3メートルにしかパキスタンの国権が及んでいない。

 国道以外の場所は、昔から地元のパシュトン人の自治区で、行政権も司法権もパキスタン政府ではなく、彼らの自治組織が持っている。パキスタン当局は、軍隊を出動させない限りこの地域に入ることはない。軍以外は、警察といえども入ることはない。車から降りて、道路脇の草むらに行って立ち小便をしている間に狙撃されても、誰も取り締まってくれない。

 パキスタン領内なのにパキスタンの国家の力が及ばないこの不思議な部族地域は、アフガニスタンとの国境沿いに南北の長さ約1000キロ、東西の幅50-200キロにわたって広がっている。10月8日にアメリカがアフガニスタンを攻撃した後、暴動が起きたクェッタとペシャワールは、いずれも部族地域に隣接している。

 この地域内を通る国道は、パキスタンの首都イスラマバードから難民都市ペシャワールを経由し、カイバル峠を越えてアフガニスタンの首都カブールに至る国際的な幹線道路である。街道を通るすべての車には、部族地域の入り口からアフガニスタン国境まで、武装したガードマンが警備のために同乗する。

 彼らは地元のパシュトン人で、パキスタン当局に雇われ、同じ民族の同僚たちが襲ってこないよう、車を守ってくれる。ところが彼らは武装しているといっても、持っているのはだいたい旧式の銃が一丁だけで、短銃(ピストル)を上着の内ポケットに入れているだけという軽装の人もいた。このあたりがイギリスの植民地だったころと、あまり様相は変わっていない感じだ。

▼160年前に出された最初の「聖戦布告」

 この地域に住んでいるパシュトン人は、アフガニスタンのタリバン政権を作った人々と同じ民族だ。パシュトン人はアフガニスタンの人口の約半分を占めるほか、パキスタン側でも人口の16%を占めている。

 パシュトン人は、内部でさらにいくつもの部族集団に分かれている。戦国時代までの日本のように、地域ごとに大名のような指導者一族がおり、それぞれが領土と領民を持ち、武装して自警している。アフガン側では、今は人々はタリバンに従っているが、タリバンがさらに弱体化すると戦国状態に逆戻りする可能性もある。

 彼らは昔から勇猛なことで知られていた。パキスタン軍の兵士の25%がパシュトン人である。部族地域が生まれた経緯にも、パシュトン人が勇猛だったことが関係している。18世紀以降この地域を支配していたイギリスも、そしてその後継国家であるパキスタンも、軍事力では勝っていても、彼らを服従させることはできなかった。

 19世紀、イギリスはアフガニスタンの政変に介入してカブールまで侵攻し、反英政権を潰してイギリスの傀儡政権を置いた。しかしその後、1838年にパシュトン人のイスラム聖職者たちが「ジハード(聖戦)」を宣言する「ファトワ(布告)」を出し、各地で反イギリスの武装決起が起こった。イギリス軍は撤退したが、パシュトン軍に追いかけられ、16000人の全イギリス軍が全滅した。

 読者の多くにとっては、もはや「ジハード」も「ファトワ」も聞いたことのあるキーワードだろうが、アフガニスタンで欧米支配者に対する聖戦の布告が出されたのは、この1838年が初めてだった。イギリスはその後、パシュトン人居住地域の一部を英領インドに編入したが、以前の敗北を踏まえ、彼らを完全に支配下に置こうとはせず、部族地域として自治区にした。パシュトン人の居住地域は、英領インドとアフガニスタンとに分断されることになった。

 1947年、英領インドの西側は独立してパキスタンとなった。パキスタンもイギリスの遺志を継ぎ、アフガニスタンを影響下に置こうとしたが、アフガニスタンの国王だったザヒル・シャーは、パキスタンの影響下から逃れるため、パキスタンと仲が悪いソ連やイラン、インドなどと接近する外交を展開した。このころ急速に対立が深まった「冷戦」を逆手にとり、自国の生き残りを図ったのである。(この国王が、最近アメリカが「タリバン後」のアフガン指導者として担ぎ出そうとしている人物である)

 そして、自らもパシュトン人だった国王は、逆にパキスタンに揺さぶりをかけるため、パキスタン領内の部族地域のパシュトン人が、パキスタンから分離独立して「パシュトニスタン」という国を作る闘争を支援した。パキスタン軍は、部族地域を空爆して対抗した。こうした紛争は、1973年にザヒル・シャー国王がクーデターで追放されてヨーロッパに逃げ、政局が流動化してソ連が介入を強め、79年の軍事侵攻へとエスカレートしていく中で雲散霧消した。

▼傀儡としか見てもらえそうにない元国王

 それから約20年、アフガニスタンでは内戦が続き、パキスタンはテコ入れするゲリラ派閥を変えながら内戦に介入し続けたが、支援していたのは大体がパシュトン人の勢力だった。1989年にソ連が撤退した後に起きた内戦では「ヘクマティアル派」を支援し、1994年にアメリカが、パキスタンから中央アジアへのルートを開拓するためにアフガニスタンの安定を欲するようになると、タリバンの結成を支援してヘクマティアル派を見捨てた。

 この内戦でパキスタンに支持された勢力の敵となったのは、ロシアやイランに支持された、タジク人、ウズベク人などの勢力で、これが9月11日以降アメリカの支援を受けて突如として有名になった「北部同盟」である。彼らは、人口からみるとパシュトン人以外のアフガニスタンの約半分を束ねているのだが、多民族の寄り合い所帯なので、なかなか結束できない。ニューヨークのテロ事件よりずっと前から、ロシアやイランはアフガンに自分たちの傀儡政権を作ろうとして北部同盟を強化しようと何度も試みたが、全て失敗している。

 アメリカは今後のシナリオとして、米軍の空爆と北部同盟による攻撃でタリバン政権を軍事的に壊滅させ、その後、ザヒル・シャーがパシュトン人諸派をまとめ、北部同盟がタジク人やハザラ人などパシュトン以外の人々をまとめ、両者が会議を開いて連立でタリバンに代わる新政権を樹立する、という展開を描いている。

 しかし、北部同盟が政権をとったら内部分裂を激化させて内戦を再開させる可能性が強い上、ザヒル・シャーがパシュトン人各派から指導者として受け入れられる可能性もかなり低い。1970年代までの在位中のザヒル・シャーは、人々がイスラム教に基づく伝統習慣を捨てることがアフガニスタンの近代化につながると考え、女性のイスラム的な服装を制限し、宗教を嫌悪する社会主義にも好意的だった。

 そのころ、アフガン国民のうち1割程度を占めていた都会の住民は、シャーの改革に賛成する人が多かったが、残りの山村の農民たちは、伝統を重視する保守的なイスラム教徒が圧倒的で、シャーの改革はまるで受け入れられなかった。その後、20年間の内戦で、都会の人々の多くは難民となって国外に流出してしまい、アフガン国民として残っているのは山村の人が多い。今さらシャーが戻ってきても、ほとんどのアフガン人の目には「アメリカの傀儡がやってきた」としか映らない。

▼誇り高く古式ゆかしい山村の人々

 パシュトン人は、誇り高く、古式ゆかしい山村の人々である。だから彼らは「傀儡政権」を嫌い、イギリスやソ連の支配と戦い、パキスタン政府にも服従しなかった。彼らを「テロリスト」などと呼ぶのは外国人の勝手だが、彼らには彼らなりの歴史と伝統がある。アメリカや、今や薄っぺらな概念になりつつある「国際社会」が、それを尊重し、理解しようとしない限り、彼らの方も抵抗を止めることはないだろう。

 それを無視して、アメリカがタリバンを倒してシャーを指導者につけ、パキスタンがその新政権を支持した場合、アフガン側だけでなく、パキスタン側のパシュトン人地域でもパキスタンからの分離独立を目指す、かつての「パシュトニスタン」の独立闘争が復活しかねない。パシュトン人は、パキスタン軍の兵士の25%を占めており、パキスタンが内戦に突入することは間違いない。これこそまさに、オサマ・ビンラディンの思う壺だろう。そう考えると、アメリカの戦略はベトナム戦争以上の自殺行為であることが分かる。

 むしろ、大テロ事件より前の状況を振り返るなら、アメリカはタリバンと交渉し直した方がいいと思われる。タリバンは1996年にビンラディンを匿ったものの、その後アメリカの圧力を受け、ビンラディンが外部と簡単に連絡できないよう、携帯電話などの通信手段を取り上げ、行動を遠巻きに監視する態勢を敷いた。その後アメリカは98−99年の段階で性急なタリバン敵対政策をとったため、ビンラディンの「あぶり出し」に失敗し、今日の事態に至った。

 今後、まずは再びタリバンをアメリカの交渉相手して、彼らにオサマ・ビンラディンを監視させる状態に戻し、それから事態を好転させていく方が、成功の可能性が大きいと私には思われる。



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