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イラク日記(2)バクダッドへの道

2003年1月7日   田中 宇

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○2003年1月6日

 朝5時すぎ、モスクから拡声器で礼拝を呼びかけるアザーンの声で目が覚めた。今日はヨルダンのアンマンから、イラクのバクダッドまで、約800キロを車で移動する日である。

 私たちは、アンマンの中心街にある「アブダリ・バスターミナル」の前のホテルに泊まっていた。ホテルの前のバスターミナルは、ヨルダンの各都市や、シリアのダマスカス、パレスチナ(イスラエル)への入り口であるキング・フセイン橋など各方面へのバスや乗合タクシーなどが発着する交通の要所である。私は5年ほど前、このホテルに泊まったことがあるが、ホテルの施設は当時からそのまま老朽化した感じで、あれ以来パレスチナ和平のオスロ合意体制が崩壊して物騒になり、観光客もほとんどいなくなったことを物語っていた。

 私たちは朝6時半にホテルをチェックアウトし、堀越上人が手配したタクシーに乗り込んだ。タクシーはアメリカのGMシボレー(GMC)の立派なハッチバック車だった。東京のイラク大使館でビザをとったとき「バクダッドへはGMCで行くと快適だ」と教えられていたものの、GMCは片道1台250ドルと高いので、当初は100ドルの普通のセダン型のタクシーで行こうとしていた。ところが実際に来た車はGMCで、バクダッドからアンマンに客を乗せてきた帰り道のGMCが、空車でバクダッドに帰るよりは良いということで、100ドルで行ってくれることになったらしい。私たちの一行は4人で、堀越上人、ジャーナリストの松崎さんに加え、カメラマンの嘉納愛夏さんが合流した。

▼行き交うタンクローリー

 早朝のアンマン市内を抜け、砂漠に入ったあたりで、イラク人の運転手がラジオをつけた。アラビア語なので地名や人名以外の内容は分からないが、昨夜イスラエルのテルアビブ繁華街で起きたパレスチナ人による自爆テロ(自爆攻撃)についてアナウンサーが話していることは分かった。昨夜遅く、このテロ事件の発生を知ったときは、何となく対岸の火事のように思っていたが、今朝、テロ事件の報復としてイスラエルがレバノン再侵攻を考えている、というようなことを改めてラジオで聞くと、これは対岸の火事などではなく、ヨルダンからイラクに向かう私たちにとっても大きな「暗雲」であると気づいた。

 アメリカ政府中枢でイスラエル寄りのタカ派が封じ込められ、中東の安定を優先する中道派が主導権を握ったので、イスラエルのシャロン政権は、選挙前ということもあり「独自のテロ戦争」を展開する構えを見せている。シャロンは1980年代のレバノン侵攻を指揮した元軍人だ。アメリカがイラク侵攻をほのめかしている間に、イスラエルが再びレバノンに侵攻してシリアをも挑発し、選挙前の政治状況を自分に有利なように変動させるとともに、中東情勢をさらに緊迫させ、ワシントンでのタカ派奪回に寄与しようとする可能性が持ち上がってきた。そうなるとイラクを取り巻く情勢も予断が許さない状態になる。

 イラク国境に向かう荒野(砂漠)の中の道には、石油を積んだタンクローリーがひっきりなしに往来していた。ヨルダンが消費する石油はほぼ全量がイラクからの輸入で、半分はイラクからの無償供与、残りも野菜などとのバーター取引で、事実上、ヨルダンはイラクから石油を恵んでもらっている。ヨルダンは、イラク、イスラエル、アメリカ、サウジアラビア、シリアなど、対立する関係諸国との間でバランスをとることが国家の存在理由だ。ヨルダンには大した産業がない代わりに、対立する周辺諸国間の「緩衝地帯」になることで、関係各国から経済援助をもらって国を成り立たせている。イラクのフセイン政権にとって、ヨルダンに石油を無償供与し続けることは「保険」のようなものである。

 私たちが通ったのは、ヨルダンからイラクへの唯一の街道だったが、ヨルダン側では荷物検査が全くなかった。検問所が2ヵ所ほどあったが、自由に車を通行させていた。イラクは湾岸戦争から10年以上、アメリカ主導の経済制裁を受けているのに、ヨルダンからイラクへは、自由に物資が持ち込める状態になっている。

 イラクは世界第2の石油埋蔵量なので、人口500万人のヨルダンが消費する石油を無償供与することは、大したことはない。石油を供与する見返りに、イラクは経済制裁下でもヨルダンから物資を輸入できるのだから、石油の無償供与はイラクにとって十分に意味のある戦略である。

 イラクは、トルコに対しても同様に石油を輸出し、物資と交換している。ヨルダンもトルコもアメリカの親密な同盟国だが、アメリカは十分な経済援助を提供していないので、経済が不安定な2つの同盟国がイラクと取引することを黙認せざるを得ないのだろう。

▼なぞのバックミラー

 イラク国境まで100キロほどに近づいたとき、運転手が走行中にフロントガラスの中央上部にバックミラーを取り付けた。運転手の鋭い目線が、鏡越しに見えるようになった。それまで外してあった鏡をどうしてつけたのか、ふと疑問に感じた。

 後ろの座席に座っていたカメラマンの嘉納さんや私は、アンマンを出発して以来、ときどき車窓から写真を撮っていたので、もしかすると、イラクに入ってから余計なものを撮らないよう、室内を見張るために鏡をつけたのではないか、と思った。(運転手はアラビア語だけしか話さず、私たちは誰もアラビア語を話せないので、バックミラーの謎を直接尋ねて確認することはできなかった)

 以前イラクを旅行したアメリカ人の手記に、運転手は公安関係の人であることが多いので、車内での会話には気をつけた方が良い、と書いてあった。イラクは、社会的に相互監視が厳しいことで知られた国である。私は、それまで車窓から見えたものをメモしていたが、それも目立たないようにやるようにした。

 とはいえ、そんな私の反応も取り越し苦労だったかもしれない。イラクに入国した後、運転手に、車窓から写真を撮って良いか尋ねたら、全く問題ない、と言われた。道ばたの無線通信施設なども撮ったが、何も言われなかった。

 私たちの運転手は物静かな長身の初老の男性で、国境での出入国審査の際は、いろいろな手続きをてきぱきとこなしてくれ、後述するように、入国係官に言いがかりをつけられそうになったときも、上手に対応してくれた。運転手という彼の立場上、国境の手続きをスムーズに終わらせ、早くバクダッドに着きたいと考えるのは当然だ。かいま見た彼のイラク旅券には、各ページにヨルダンのビザのシールがずらりと押され、バクダッドとアンマンを頻繁に行き来していることがうかがえた。

 彼は、国境に着く前に私たちからパスポートを集め、運転しながら私たちのビザをチェックしていた。これは入国の事前審査のようなものだった。彼が公安関係の人であったとしても、それは逆に、彼の指示に従っている限り、順調にことが運ぶということを意味していた。

 国境でイラク側に入るゲートのところに、サダムフセイン大統領の大きな肖像画が看板になっていたが、それを見て運転手はかしこまった感じで「何とかかんとかのサダムフセイン大統領です」とアラビア語で説明した。「偉大なるわれらの指導者、サダムフセイン大統領です」などと紹介したのではないかと思われ、こうして紹介するあたり、ご当局の人なのだろうと感じられた。バクダッドについてから分かったのだが、イラクの「官」の人々は多かれ少なかれ、みんなこの手の説明をしていた。

▼国境に並ぶ物資

 アンマンから3時間半ほど走ると、荒野の中のイラク国境に着いた。大きな屋根のついた検問所には、たくさんの大型トラックが検査を待っていた。

 ヨルダンからイラクへの方向には、新車や中古車を10台ぐらいずつ積んだ自動車運搬トラックが何台も止まっていた。イラク国内を走る自動車は、ここを通って輸入されているらしい。nissanという大きなロゴが入ったピックアップトラックのぴかぴかの新車がぎっしり積まれたトラックも見た。イラク側には、新車を買える経済的な余力があるのだ。セメントやパイプライン用の鉄の管を積んだトラックもいた。西欧の運送会社のロゴが描かれたコンテナを積んだトラックも列をなしていた。

 イラクからヨルダンの方向には、四角い形に束ねた干し草を山積みした数台のトラック群や、穀物らしい積み荷もあった。街道を頻繁に行き交っていたタンクローリーの姿は見えなかったので、石油関係の車両には別の出入り口が用意されているのだろう。イラク中央のチグリス・ユーフラテス川の流域には豊かな農村が広がっており、石油だけでなく農産物もイラクからヨルダンに輸出され、その対価として自動車や建材、日用品などが輸入されていると見受けられた。

 出入国審査は、ヨルダン側とイラク側、合計で2時間近くかかったが、出入国の人の流れは少なかった。アンマンからバクダッドへの道路は交通量が少なく、走っているのはほとんどがトラックで、多くの人々を乗せたバスやタクシーは、どちらの方向にも少なかった。アメリカの侵攻が近づいているといわれているのに、イラクから出国する人々の流れが発生している、ということはなかった。

 イラクの入国審査場の建物は、地元の人々(アラブ諸国民用?)と、その他の外国人用とに分かれており、外国人用の方にはソファと絨毯をしつらえた待合室があり、砂糖がたくさん入ったお茶が振る舞われた。一つの壁面一杯にフセイン大統領の大きな肖像画が掲げられており、他の壁には古代からのイラクの歴史が英語で書かれた看板が貼られていた。

 入国審査は入り口のカウンターで行われていたが、入国者が一人ずつ個別に質問を受けることはなく、グループごとに入国手続きが行われていた。フランス語を話す一団や、赤十字のワッペンをつけた欧米系の人々など、いくつかのグループが座って待っていた。

 入国時には、パソコンと一眼レフカメラ、それから私たちは持っていなかったがビデオカメラについても、製造番号を登録することが必要だった。イラク国内の反体制的な人々にパソコンやビデオカメラなどが渡され、アメリカなど外国勢力と電子メールで連絡を撮るために使われたり、イラク政府に不都合な映像が持ち出されることを防ごうとしているのではないかと思われた。

▼難題は袖の下のため?

 入国審査が終わろうとするとき、小さなハプニングがあった。最後に荷物検査が行われることになり、運転手が私たちの荷物を車から出し、近くにあった石の台の上に乗せた。入国管理官が来る準備として、運転手はいくつかのかばんを開けて中のものが見えるようにした上、自分の車のボンネットも開け、係官がさっと検査をすませられるようにしておいた。

 たまたま開けた荷物のポケットの中に日本の携帯電話が入っていることに気づいた運転手は、それを持ち主の嘉納さんに渡し、ポケットに入れておくように指示した。日本の携帯電話はイラクでは使えないが、無線機ではないかと係官に疑われ、手続きに思わぬ時間がかかってしまうことを防ぐための、運転手の知恵だった。

 そこまでは手際よく進んだが、間もなくやってきた係官は、荷物を一瞥した後、私たちに所持金の額を尋ねた。イラクではクレジットカードなどは使えないので、みんな1000ドルとかそれ以上の額のお金を持ってきていた。私たちに順番に額を言わせた後、係官は「出国するときは20ドルしか持ち出せない」と言い出した。その他の所持金は全てイラク国内で使わねばならない、ということらしかった。

 そんな決まりは全く聞いていなかったので驚いていると、係官は「200ドルしか持ち出せないが、大丈夫か。お金を見せなさい」と畳みかけて尋ねてきた。どうも最初の発言では、200ドルと言うべきところを20ドルを間違って言っていたらしい。

 何だかおかしいぞと思ったとき、運転手がアラビア語で係官に何か言い、その後英語で私たちに「ノープロブレム」と言って目くばせし、係官と一緒に入国審査場の方に戻っていった。間もなく戻ってきた運転手は「5ドル渡した。もう問題ない」と言った。どうやら、係官は私たちに難題を突きつけて、何らかの袖の下を得ようとしたらしい。あのまま係官にドル札を見せていたら、もっと多くのお金をとられていたかもしれない。

▼のんびりした飛行禁止区域

 ヨルダン側の道路は片側1車線だったが、イラク側に入ると片側2−3車線に広がった。中央分離帯や街灯、道路標識も完備されていた。バクダッド市内まで、路面は全行程きれいに舗装されており、道路を頻繁に修繕できるだけの十分な国家財政があることがうかがえた。どうやら、イラクはヨルダンよりずっと豊かな国であるらしい。交通量は少なく、私たちのGMシボレーはずっと時速150キロを出していたが、周りが荒野(砂漠)なので80キロぐらいにしか感じなかった。

 国境からバクダッドまで500キロ以上の道路は、米英が湾岸戦争後に定めた「飛行禁止区域」(北緯33度以南)の区域内を通っている。イラクの軍民の飛行機はこの地域内での飛行を禁止され、飛行禁止を徹底する名目で英米の戦闘機が上空を飛び回り、しばしば地上のイラク側の軍事拠点などに対して空爆を行っている。

 私たちはイラク入国後、そのような戦場に準じる飛行禁止地域の中を5時間近く通行した。だが予想とは裏腹に、途中で休憩のために立ち寄った荒野のオアシスのドライブインでは、のんびりした時間が流れていた。野外に果物や飲み物を売る屋台が出て、カメラを向けると売り子の若者が笑顔で応えた。どう見ても、上空に敵機が飛び交う戦争直前の国とは思えなかった。気温は15度ぐらいで日差しが暖かい。

 国境から3時間ほど行くと、ユーフラテス川の流域に入り、景色は荒野から農村に変わった。高い椰子の木が茂り、畑や牧草地が連なっていた。水田もあった。完全な食糧自給ができないとしても、イラクは一定の食糧を自国内で確保できる国なのだった。その点は、ほとんど砂漠だけのヨルダンやサウジアラビアと違う有利さだ。石油も食糧もあるとなれば、強国を作ることができる。中東を分割支配したいアメリカがイラクを警戒する理由がここにある、と思った。

 バクダッドに近づくにつれ、交通量が増えてきた。日が暮れかけた5時すぎ、運転手が前方の車の列を指して「UNMOVICだ」と言った。国連査察団の隊列だった。どこかでこの日の査察を終え、バクダッドの宿舎に帰るところらしい。私たちの車は、全部で30台ばかりの査察団の隊列を抜いて行った。先頭には脇腹にUNと大書した10台ほどが走り、そのあとをマスコミなどが乗っていると思われる車の列が延々と続いていた。

▼意外に活気があるバクダッド

 日暮れ後にバクダッド市内に入ると、交通量はどんどん増え、渋滞の中を走るようになった。市内には立体交差も多く、道路の両側の商店街には、こうこうと明かりがついている。この日(1月6日)は、イラク軍が創建されて82周年にあたる軍隊記念日の休日で、繁華街の歩道には多くの市民が歩いていた。

 日本や欧米にいてイラクに関する報道に接していると、12年間の経済制裁を受けたイラク社会は完全に疲弊しているように感じられたが、バクダッドに来てみると、非常に活気があり、意外に豊かなのでとても驚いた。町は雑然とした感があり、その点でエジプトのカイロと似ていたが、バクダッドはカイロに負けない豊かさを誇っていた。インフレが激しく、公務員など固定給の人々の中には貧しい人もたくさんいるのだろうが、町全体としてみれば、中東有数の活気ある大都市だった。

 湾岸戦争後、1995年ごろまでは経済制裁の影響で物資が払底していたが、その後制裁に対する批判が国際的に強まり、人道援助の名目で経済制裁が緩和され、豊かさが戻った。95年にもバクダッドを訪問している堀越上人と松崎さんによると、95年当時は日用品も不足する状態だったという。だが、今はそんなことはない。翌日からバクダッドの町を歩いて分かったのは、少し専門的な商品は店を回ってもなかなか見つからないが、それ以外の誰でも使う日用品はどこでも売っていた。

 イラクには豊富な埋蔵量の石油がある。経済制裁で採掘量は減ったままだが、それでも石油を売ることで、かなりの豊かさを回復している。このまま経済制裁が解かれ、石油を自由に売ることができるようになったら、イラクは中東最大の大国になる素質を持っていることが感じられた。

 石油は、他の商品とは違う性質を持っている。たとえば日本や韓国が誇る電化製品は、作りすぎると価格破壊を引き起こし、過剰在庫になって経済力に結びつかないが、石油はもっと換金性が高い。相場が下落したら採掘を止め、上昇したらまた売ればよい。

 しかも、たとえばイラクとサウジアラビアが結託すれば、これまではアメリカの大手石油各社が牛耳っていた石油相場そのものを、アラブ諸国で動かすことができる。イラクがヨルダンに石油を無償提供することで、ヨルダンの外交政策に多大な影響を与えているように、石油は政治的な武器になる。

 クリントン政権時代の経済グローバリゼーション計画が崩壊して経済難に瀕し、世界に対する支配力にかげりが見え出したアメリカが、できるだけ早くイラクの現体制を壊し、イラクを混乱させるか分割してしまいたいのは、イラクが世界を動かす潜在的な力を持っているからに違いない。車の窓から見たバクダッド市内の第一印象から、そう思った。



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