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クルドの町スレイマニヤ

2003年5月12日   田中 宇

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 イラク北部のクルド自治区に行こうと思った理由の一つは、クルド地区ではインターネットカフェが開いていると聞いたからだった。バグダッドでは電話網が破壊されたままで、戦前にあったインターネットカフェは、すべて閉鎖されている。

 クルド地区でインターネットができることを教えてくれたのは、私が泊まっていたバグダッドのホテルを経営していたクルド人のおやじさんだった。クルド地区は今回の戦争で戦闘が全くなかったため、町はきれいなままで、活気も失われていないという。彼はクルド地区の中でも、特にスレイマニヤ(スラマニ)に行くことを勧めた。

 この宿には、クルド人の中でも、スレイマニヤを中心とする民族組織(政治軍事組織)PUK(クルド愛国同盟)の人たちが多く泊まっているPUK系の宿らしく、そのため宿の主人はスレイマニヤを特に勧たようだった。彼は「スレイマニヤは山に囲まれた、スイスのような場所だ」と語ったが、現地に行ってみると、それは事実だった。

 クルド人はイラク北部に広範囲に住んでいるが、北部の主要都市であるキルクークとモスルは、フセイン政権が「アラブ化政策」(クルド人を追い出してアラブ人を外部から移住させる)を展開し、クルド人の人口が減った。

 この2大都市以外の、イラン国境に近い東部のスレイマニヤ、トルコ国境に近い北部のドホーク、キルクークとモスルの間に位置するアルビルの3つの州は湾岸戦争後の1992年、フセイン政権との合意で自治が許され、クルド人自治区となった。

 現在、スレイマニヤをPUKが、アルビルをもう一つの民族組織KDP(クルド民主党)が統治している。クルド人は、言語的にさらにいくつかの枝族に分かれており、PUKとKDPは別々の枝族の人々が中心となっていると聞いた。

(クルド人は第一次大戦後の一時期、欧州列強から独立国家の樹立を認められたが、その後ロシア革命を受けた列強の新生トルコ共和国に対する重視政策の犠牲になり、独立が阻まれた。それ以来、クルド人は独立を希求している)

 湾岸戦争後、1995年にはフセイン政権の介入があり、フセイン政権と結託したKDPが、PUKを攻撃するなど混乱した時期もあったが、その後は安定した。今回の戦争では、トルコの拒否で米軍がイラク北部からクルド地域を通って侵攻することができなかったため、クルド地区は戦闘がなく、イラク軍が一方的に戦線を放棄して終わった。

 キルクークとモスルでは今回の戦争後、フセイン政権によって1980−90年代に町を追い出され、自宅をアラブ人政策移住者に占拠されたクルド人たちが、昔の家を取り戻そうとして銃撃などが起きたが、他のクルド自治区では、治安も町の賑わいも失われていない。

▼ムジャヘディン・ハルクと米軍

 バグダッドには2つのバスターミナルがあり、北にあるナハザ(Al-Nahaza)から北部行きのバスや乗り合いタクシーが出ていた。スレイマニヤまでは乗り合いタクシーで約5時間だった。(ジャーナリストの常岡さんのほか、同じ宿の日本人青年2人が同行した)

 バグダッド近郊では、イラク軍の戦車が道路沿いに点々と放置されているのを見た。比較的新しいロシア製T72戦車が多かったが、砲身を南から来る米軍に向けたまま、壊されもせず放棄されているものが多かった。戦闘する前に、意図的な政権崩壊により、上から命令での乗員が逃げ出した結果と思われた。

 さらに北上してバクーバ(Baquba)という町を過ぎると牧草地から砂漠地帯に入り、西側に米軍の戦車、東側にムジャヘディン・ハルクの駐屯地が、国道をはさんで対峙している地域を通過した。

 ムジャヘディン・ハルク(Mujahedeen Khalq)は、イラク領内にかくまわれてきたイラン人の反政府軍事組織で、今回の戦争中、米軍は一時その拠点を攻撃したものの、彼らを壊滅させるのはイランを利するだけだとして、米軍は彼らと和解(停戦)することを決めた。彼らはアメリカからテロ組織として指定されており「テロ組織には妥協しない」と言ってきたブッシュ政権が、ムジャヘディン・ハルクと和解してしまうのはおかしい、という意見もアメリカで出ている。(関連記事

 米軍は、ムジャヘディン・ハルクを攻撃しないものの、見張っておくために、国道の反対側に展開しているらしい。とはいえ米軍は、国道の土手を弾避けに使っており、その上を走るわれわれとしては、どうも不安だ。運転手はこの区間を全速力で通り抜けようとしていたが、対向車線の車も全速力で、トラックを追い抜こうとしてこちらの車線に入ってきたりして、戦闘の心配より、そちらの方が危ない感じだった。

 さらに2時間ほど走るとキルクークに着いたが、そこではイラクに来て初めて点灯している信号機を見て感激した。バグダッドでは停電のため、信号機はすべて止まったままだった。

 キルクークからスレイマニヤへ向かうと、道は山岳地帯に入った。遠くには雪をかぶったイランの山々が遠望できる。道の両脇は、草におおわれたなだらかな山肌のあちこちに杉の林があり、ピクニックに来たら楽しいような景色だ。事実、スレイマニヤに近づくと、家族連れが木陰に座って飲食を楽しんでいた。この日は5月9日の金曜日だった。(イラクはイスラム式で金曜日が週休日)

 途中、かつてイラク軍の検問所があってクルド人の越境を禁じていた場所を通り過ぎた。今はクルド人の兵士が守っている。途中の一カ所では、米軍の姿もあった。かつてキルクークとモスルの2大都市がフセイン政権下で、それ以外の3州がクルド自治区だったころ、この国道はクルド人の通行を禁じられ、クルド人の車は2大都市を迂回する山道を通って3州の間をつないでいたそうだ。

▼クルドはイラクの貿易の裏口

 スレイマニヤは、盆地の中にある、人口100万人ほどのだだっ広い町だ。端から端までタクシーで走ると30分ぐらいかかる。フセイン政権による「アラブ化政策」によってキルクークなどから追い出された数十万人のクルド人たちが、湾岸戦争後、新生クルド人自治区の中心地の一つになったスレイマニヤに引っ越してきた結果、野放図な宅地化が進み、拡散した町になったのだろう。町の外は牧草地で、土地が足りないということはなさそうだ。

 繁華街も一つではなく、南と北に別々の繁華街があり、それぞれ夕方にはそぞろ歩きの買い物客で混雑する。バーもあり、男たちがビールなどを立ち飲みしていた。照明を落とした日本のキャバレー風の内装のバーもあった。ホステスなどは全くおらず、従業員は全員男である。クルド人はアラブ人の大多数と同様にイスラム教徒だが、クルド社会は宗教的にアラブよりずっと寛容で、飲酒も大っぴらにやっていたし、女性たちはヘジャブ(スカーフ)をしている人と、髪の毛を出している人が半分ぐらいずつだった。

 食料品や雑貨など、物資は豊富で、喫茶店でアイスクリームや清涼飲料を楽しむ人々も多く見た。商品が豊富なのは、この地区が湾岸戦争後に国連から封鎖されていたイラク経済を支える貿易(密輸)ルートとして機能してきたことと関係がありそうだった。

 経済制裁下のイラクでは、トルコやイランからクルド地区を通ってもたらされる商品は貴重で、1996年に人道支援として経済制裁が緩和されると、この貿易ルートは繁盛し、クルド地区も豊かになった。表向き、トルコやイランとイラクの国境は閉まっているが、この地域は国境の両側ともクルド人が住んでおり、人々や商品の行き来は活発だ。

 今回の終戦後、バグダッドでは略奪が広範囲に行われ、自動車もかなり盗まれたが、その一部はクルド人の貿易商が略奪者から買い取り、クルド地区を経由してイランに売りさばいてしまったという。

▼物価高のスレイマニヤ

 スレイマニヤの物価は、バグダッドよりかなり高かった。それは、クルド地区が他のイラクとは違う通貨を使っていることが一因だった。クルド地区で使われている通貨は、湾岸戦争前にイラク全土で使われていた紙幣と硬貨で、発行元はイラク中央銀行だが、スイスで印刷されていたことから「スイスディナール」と呼ばれている。1ディナールが約20円だった。

 クルドが独立してキルクークの油田がクルド人のものになり、豊かな国ができるとの読みからか、米ドルに対するスイスディナールの価値は、戦争が近づいた昨年後半から上がり続け、これが外国人にとって他のイラクより物価高に感じられる原因になった。

 これに対し、イラクの他地域で使われている紙幣(フセイン大統領の顔が印刷されているお札)は、乱発の結果、1ディナールが0・06円で、湾岸戦争以来の12年間に価値が5000分の1になってしまった。クルド人は、このお札を「タベ」(Tabeh)と呼んでいたが、これは「コピーしたもの」という意味で、裏付けなく刷られた低価値の紙幣に対する蔑称だそうだ。

 バグダッドでは、タクシーは1000−2000タベ(50−100円)だったが、スレイマニヤでは、5−10スイスディナール(100−200円)だった。食事も、だいたい2倍という感じだ。クルドが物価高というより、他のイラクの物価が安すぎるという感じである。

「タベ」の価値は、戦争前の一時期1ドル3300ディナールまで下がったが、今は1850ディナール程度まで戻しており、今後イラクの秩序がさらに回復し、石油生産も増えてくれば、かなり上がってくるかもしれない。

▼キルクークを民族共存のモデルに

 スレイマニヤのインターネットカフェは、旧市街から1キロほど離れた新市街に、何軒か連なっていた。30分5ディナールだった。

 インターネットカフェを出た後、常岡さんと新市街を歩いていると「クルド愛国連盟(PUK)中央メディアセンター」と英語とクルド語などで書かれた看板を見つけた。もしかしてPUKの広報担当者に話を聞けるかもしれないと考え、入ってみることにした。

 入り口のプレハブ小屋(応接室)で少し待たされた後、奥の建物の2階に通された。対応してくれたのは、「クルディスタン・ヌエ」(新しいクルド)というスレイマニヤ地区唯一のクルド語の日刊紙の編集長をしているカワ・ムハンマド(Kawa Muhammad)という人だった。この建物は、クルディスタン・ヌエの新聞社の建物で、そこがPUKの広報的な役割をしているらしかった。カワ氏は最近、日本の朝日新聞の取材も受けたと言っていた。

 カワ氏によると、PUKが今努力していることの一つは、フセイン政権時代に肉親を殺されたり、家を追われたりといった各種の被害を受けたクルド人たちが、フセイン政権側の人々や、クルド地域在住のアラブ人に対し、私的に報復しないよう、呼びかけていることだという。

 4月9日にフセイン政権が消滅した後、イラク軍はキルクークの町を放棄し、それを知ったクルド人の武装勢力と無数の群衆が、スレイマニヤなど周辺のクルド人地区からキルクーク市内に入り、群衆はかつての自分たちの家を探し、そこに住んでいるアラブ人たちに対し、出ていくよう迫り、発砲事件も頻発した。( 「消えたイラク政府」 )

 こうした行為を放置すれば、報復に対する報復を生み、クルドとアラブの民族対立が深まるばかりだ。そのためPUKは、地域のクルド人たちに対し、私的に報復する代わりに、スレイマニヤの裁判所に被害の状態を登録し、裁判で決着をつけるよう、呼びかけている。

 終戦後、裁判所に登録された被害の訴えは、1000件以上に達しているという。すでにフセイン政権下でクルド人を抑圧していた担当者やバース党幹部に対して逮捕状が発行され、刑事事件としての処理が始まっている。

 問題は民事裁判の方で、もともとの住人であるクルド人にキルクークの家を明け渡したアラブ人家族に、代わりの家を誰が手配するのかという問題が出ている。これは、クルド人だけでは解決できないので、新しいイラク政府ができたら、そこで解決する問題になるという。

 キルクークには、クルド人、アラブ人のほかに、トルコメン人(トルコ系住民)もいる。「キルクークを、イラクで諸民族の共存ができるということを示すモデルケースの都市にするのが、われわれの目標です」とカワ氏は言う。

▼「トルコやイランのクルド人を全部統一しようとは思っていない」

 クルド人は、以前は「独立」を求めていたはずなのに、今では連邦制となる新生イラクの内部にとどまり、自治権の行使だけを求めている。この変更について尋ねると「われわれは主張を変更していない」という。

 クルド人たちは1992年、クルド各派の代表者が集まる会議で、イラクの中にはとどまるが、自治を要求するという「フセイン政権からの独立」を宣言し、自治制に移行した。(英米仏は、クルド人地域の上空をイラク軍の侵入を禁止する「飛行禁止区域」に指定し、自治が可能になった)

 今回フセイン政権の消滅により、このクルドの宣言をイラクの他民族が認め、連邦内での自治が認められることはほぼ間違いないので、クルド人の目標は、もう達成されていることになる。「われわれは、トルコやイランのクルド人を全部集めて統一しようとは思っていない」とカワ氏は言った。

 イラクの新政府は、各民族からの7人の代表者が最高幹部となり、その合議によって運営されることになる見通しで、その中にPUKのジャラル・タラバニ議長と、KDPのマスード・バルザーニ議長という2人のクルド人指導者が入っている。2人は国際的に有名なので、割合としては、これで十分クルド人の意見が反映されるだろうとカワ氏はいう。

最高幹部会の残る5人は、

  • シーア派の組織SCIRIのムハマド・ハキム師
  • 米タカ派が後押ししてきた亡命イラク人組織INCのアハマド・チャラビ代表
  • リベラル系亡命イラク人組織INA(本部ヨルダン)イヤド・アラウィ事務局長
  • イランに本部があるシーア派組織アッダワ党の代表
  • スンニ派の代表

 この7人らは4月末からバグダッドのホテルで会議を行っており、私も現場を見に行ったが、そこを警備しているのはクルド人のKDPの兵士たちだった。アメリカ軍が会場を警備すると、新生イラク政府がアメリカの傀儡のように思われてしまうので、現在イラク人の組織では唯一武装しているクルド人の勢力が会場警備に当たっているのだろう。すでにクルド人は新生イラク政府の中で、かなり大きな発言力を持っていることが、このことからもうかがえる。独立宣言をするより、新生イラク政府で影響力を行使できる方が有利だと考えるのは理にかなっているように思われた。

▼街角では続く独立の夢

 とはいえ、スレイマニヤの街頭で話を聞くと「連邦内の自治」には満足せず、あくまでも「独立」を希求している人が非常に多いことが分かった。市場で立ち話をした青年は「われわれは、今はとりあえず連邦内の自治しか求めていないが、それは暫定的な話だ。あと1−2年もしたら、状況を見ながら独立に動いていくことになるだろう」と言っていた。

 新市街でビデオCDを売る店を経営する若者も「独立より連邦内の自治の方が良い、などと考える理由はまったくない。今は仮の姿で、いずれ独立する。クルド人は独立した国を持つことが、ずっと前からの夢だったのだから、いずれそれを実現しなければならない」と言っていた。

 カワ氏は、キルクークの油田についても「クルド人のものではなく、イラク人全体のものだ」と言い、クルド人は油田の権利を主張するに違いないという世界の予測を否定した。だがCD店の店長は「キルクークの石油はクルド人のものだ。これを他の人々と分ける必要はない」と言う。

 カワ氏に取材したとき、英語に通訳してくれたバルザン氏は、そこまではっきり言うと「公式見解」と矛盾してしまうので「わたしは古い世代なので、役所や学校の建物の上にPUKやKDP(という党組織)の旗ではなく、クルドの国旗が掲げられることを、ずっと夢見てきました。これからの若い人は、そんな夢を見ず、もっと現実的に対応するのかもしれません。でも私には、夢を見ることぐらいは許されると思うのです」と語っていた。

 人々は政治に理想を求めつつも、政治の側が現実的な対応をすることを受け入れる、という状態は、世界の各国でみられる。クルドの人々も、そのケースに入るのか、それともイラク新政府が失敗し、1−2年後にはクルドは国家としての独立を希求し始めるのか、それは今後イラクで新政府が成功するかどうかにかかっている。



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