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タリバンの復活

2003年10月1日   田中 宇

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 9月17日、アフガニスタン国境に近いパキスタン辺境の町ペシャワールで「ジャイシュル・ムスリム」(Jaishul Muslim)という組織が結成された。結成を報じたアジアタイムスによると、この組織はタリバンの残党によって構成され、パキスタンの後押しを受け、アメリカもこの組織を承認(黙認)した上で、アフガニスタンの現カルザイ政権と交渉するために作られた。交渉が成功すれば、現政権で外されているパシュトン人(タリバン)の勢力を政権内に取り込み、内戦を終結させてアフガニスタンを安定させることができる。(関連記事

 タリバンは、アフガニスタン国民の約半分を占めるパシュトン人を代表する組織だが、パシュトン人はアフガン諸民族の中で最も強く、アフガニスタンを統一安定させるためには不可欠な勢力である。パシュトン人はアフガニスタン東部からパキスタン西部にかけて国境をまたがって住んでおり、18世紀からこの地域を支配したイギリスは彼らを使ってアフガニスタンを間接支配しようとしたし、1945年にこの地域に建国したパキスタンも同様の動きをとった。

 1980年代にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、パキスタンのほか、ソ連との冷戦を戦っていたアメリカ、イスラム世界に原理主義(ワハビズム)を広げようとしていたサウジアラビアの3者が、パシュトン人を中心とする反ソゲリラ勢力を支援した。1990年のソ連撤退後、アフガニスタンはゲリラどうしの内戦に陥ったが、内戦を収束させるためパキスタンとアメリカが難民青年を支援して1994年ごろに作ったのがタリバンで、これまたパシュトン人の組織だった。

 911事件後、オサマ・ビンラディンをかくまっていたタリバンが敵視され、アメリカがタリバンを潰す戦争を行ったが、これは「アメリカがパシュトン人を使ってアフガニスタンを安定させる」という、それまでの流れを完全に逆行させるものだった。

 タリバンを潰した後、アフガニスタンにはカルザイ政権ができたが、これはタリバンがアフガン全土を統一しようとしたときに最後まで抵抗した「北部同盟」の政権である。北部同盟は、アフガニスタン諸民族の中で昔からパシュトン人の敵だったタジク人、ウズベク人、ハザラ人などが主力になっている。

 カルザイ議長自身はパシュトン人だが、これは新政権がアフガニスタンの全勢力を連立したかたちに仕立てるための人事で、カルザイは軍勢を持っていないため、ほとんどアメリカの傀儡でしかない。

▼戦国大名にカネをばらまく

 アメリカはタリバンを潰し、代わりに北部同盟にカルザイ政権を作らせたが、それによってアフガニスタンに新たな安定をもたらそうとしたかといえば、そうでもない。カルザイ政権が統治しているのは首都カブールの市内だけで、その外側は、政府の言うことをほとんど聞かない地域ごとの武装勢力によって統治されている。ちょうど、日本の戦国時代のような群雄割拠の状態である。

 カルザイはアメリカに「アフガニスタン国軍」を創設させてほしいと頼んだが拒絶された。国軍ができれば、カルザイはそれを使って全国統一の動きに出られるが、実現していない。むしろアメリカは「ビンラディンを探す情報を得るため」と称して、アフガン各地の「戦国大名」たちにカネをばらまき、傀儡のカルザイ政権ではなく、カルザイに敵対する戦国大名たちを力づけてしまった。

 無政府状態の混乱に乗じて戦国大名たちは、タリバン政権下では規制されていた麻薬(ケシ)の栽培を拡大した。アメリカの新聞はこうした動きを批判する記事を盛んに載せているが、アメリカ政府自体は、戦国大名による麻薬栽培を黙認している。今や、ヨーロッパで消費される麻薬の9割以上がアフガニスタン産であるという状態になっている。

(歴史的に見ると、ベトナム戦争時のインドシナや、コロンビア、レバノンなど、アメリカが軍事介入した地域の多くは、軍事介入が始まった後、麻薬栽培が盛んになっている。CIAや米軍が秘密作戦のための費用を作るため、麻薬取引にかかわっているのだという指摘が何回も出ている)

▼ビンラディンは捕まえない方針?

 アメリカがやっている動きでもう一つ奇妙なのは、オサマ・ビンラディンを捕まえる気があるのかどうか怪しい、ということである。

 今年3月、私は「ビンラディンがもうすぐ捕まるという記事があちこちから出てきている」という記事を書いた。その後、全然捕まる気配がないので、あの話はどうなったのだろうか、と思っていたら、8月に入ってイギリスの新聞ガーディアンが「ビンラディンはパキスタンのアフガン寄りの辺境地域におり、すでにアメリカとパキスタンの当局は居場所を大体突き止めているが、ムシャラフ大統領の希望で逮捕は延期されている」という報道を出した。(関連記事

 ムシャラフは、パキスタン国内にはビンラディンの賛同者が多いので、彼を捕まえたら国内で暴動が起きて自分の政権が転覆されてしまうかもしれず、それを防ぐために逮捕延期を願い出たのだという。

 そもそもビンラディンに関しては、アフガン戦争の末期、後述するクンドゥズと同様にタリバン側が包囲されて大きな戦闘となった「トラボラの戦い」の際、ビンラディンが白昼堂々と自動車の隊列を組んでトラボラを逃げ出し、パキスタンに移転したという報道もある。このとき、米軍はビンラディンの車の隊列の存在に気づきながら放置したと批判されている。クンドゥズの戦いでタリバン幹部たちをわざと逃がしたのと同じ構図である。

▼包囲されたタリバンに逃亡を許す

 ここまで、アメリカがアフガニスタンをわざと不安定な状態に置こうとしているように思える動きをいくつか紹介した。これらを見ると、イラク戦争とアフガン戦争は似ていることが感じられる。いずれも米軍によってわざと泥沼化させられた感があるし、ビンラディンもフセインもいまだに捕まっておらず、アメリカ側がわざと捕まえていないのではないか、と思えるからである。

 だが、こうしたこの間の流れを一枚めくってみると、逆にタリバン後のアフガニスタンをアメリカが安定させようとしている動きも見えてくる。たとえば、アフガン戦争末期に起きた「クンドゥズ」の事件がその一つである。

 戦争終盤の2001年11月下旬、アフガン北部の町クンドゥズで、タリバン軍と北部同盟軍の戦闘があった。タリバン軍はその前の段階で、クンドゥズの西にあるマザリシャリフでの戦闘に破れ、東にあるタロカンの戦闘でも負けた。

 それらの戦いで負けたタリバン側の敗残兵が、まだ陥落していなかったクンドゥスに立てこもり、侵攻してくる北部同盟軍と対峙した。その数は総勢約8000人。クンドゥズからカブールへの退路は米軍の爆撃によって寸断され通行不能で、タリバンの敗北は必至だった。

 内戦が絶えなかったアフガニスタンでは、このような事態になったとき、双方の軍勢を代表する者がどこかで会合を持ち、敗北が決定的になった側が降伏する代わりに、勝利が間近になった側はそれを許すことで、無用な死者を出さない戦場の習慣があった。習慣にのっとり、タリバンは北部同盟に降伏の交渉を持ちかけた。だが、北部同盟の背後にいるアメリカは、タリバンが許されることを認めなかった。タリバンにとって最後の絶望的な戦いが始まりそうだった。

 ところが、それに引き続いて起きたのは、意外な展開であった。夜間にパキスタンからクンドゥズの飛行場に向けて多数の軍用輸送機が飛来し、タリバン側の勢力を次々に乗せてパキスタンに退避させ始めたのである。

 パキスタン軍が動いたのは、クンドゥズに多数のパキスタン軍人、特にISI(パキスタンの諜報機関)の要員がいたためだった。タリバンは1994年に旗揚げして以来ずっと、戦争から国家運営のやり方まで、ISIの顧問団から手ほどきを受けていた。タリバンがアフガニスタンのほぼ全土を掌握できたのはISIのおかげだった。米軍が北部同盟と組んでタリバンを攻撃し始めた後も、ISIの要員とパキスタン人のゲリラ兵たちは、タリバン軍と一緒に戦っていた。

 クンドゥズが包囲されたとき、パキスタンのムシャラフ大統領がホワイトハウスに「パキスタン人兵士の救出を黙認してほしい」と要請してきた。ムシャラフはアメリカ側に「クンドゥズで無数のパキスタン人兵士が死に、その遺体袋がパキスタンの飛行場にずらりと並べられる光景が報じられたら、反米イスラム原理主義勢力による反政府運動が高まり、自分の政権が持たなくなる」と説明し、救出作戦に対する黙認を求めた。

 アメリカの国防総省では反対が大きかったが、CIAや国務省は要請を受けるべきだと主張し、結局ブッシュ政権はムシャラフの懇願を受け入れた。米軍の中央軍司令部に命じて、クンドゥズからパキスタン国境までのルートで、地上から砲撃を行わせない態勢を作らせた。救出作戦は3日間続き、毎晩パキスタン国内の飛行場とクンドゥズの飛行場の間をパキスタンの軍用機が何回も往復した。

 問題は、救出されたのがパキスタン人だけでなく、アフガン人のタリバン幹部や、アラブ人のアルカイダ幹部も救援機に乗って逃げ出してしまったことだった。クンドゥズに立てこもった8000人のうち、最終的に4000人近くが投降した。残りの約4000人のうち何人が戦闘で死亡し、何人がパキスタンに逃げ出したかは分からないが、かなりの数のタリバン幹部、アルカイダ幹部が逃げ出した可能性がある。(関連記事

▼アフガンを安定させる動きと、不安定にする動き

 クンドゥズ救出作戦と、タリバン残党が9月17日に「ジャイシュル・ムスリム」を結成した話とはつながっている。911事件の後、ブッシュ政権中枢ではアフガニスタンに侵攻すべきかどうか議論があったが、その際に国務省は、戦争でタリバンを潰すのではなく、タリバン内部で「穏健派」によるクーデターを誘発し、ビンラディンと縁を切った新しい政権を作らせるのが良いと主張していた。

 この議論は結局、戦争を主張する国防総省の勝利に終わったが、その後の戦争中にクンドゥズの事件が持ち上がり、国務省はムシャラフが要請してきた救出作戦に賛同することで、タリバンの上層部を温存させた。タリバンは米軍によって「潰された」というより「蹴散らされた」だけの結果となり、政権としては消滅したものの、幹部はアフガニスタンからパキスタンにかけての伝統的な居住地域に隠れて再起を狙った。

 アメリカではFBIが担当になり、パキスタンのISIが今年7月にタリバン残党と交渉し始めた。アメリカ・パキスタン側は、タリバンが以前のトップであるオマル師を外し、別の人物をトップに据えて再起を図るなら、カルザイ政権の中に連立の一員として入れるよう協力してやると持ちかけた。

 タリバン残党はいくつもの分派にわかれており、アメリカ・パキスタン側が最初に交渉した勢力は、オマル師を外すことを拒否したが、次に交渉した勢力はオマル師を外すことに同意し「ジャイシュル・ムスリム」の成立となった。

 それと前後して、カブールでは政権のカルザイ議長が「タリバンの全員が戦争犯罪者というわけではない。タリバンの中でも犯罪者ではない者たちは、われわれと一緒に新政権作りにたずさわることができる」と演説し、ジャイシュル・ムスリムを政権に入れる交渉をしても良い、というサインを送った。

 タリバンを復活させてカルザイと連立を組ませようとする動きと、戦国大名にカネを渡して群雄割拠の不安定さを維持しようとする動き、ビンラディンを逮捕せずに放置しておく決定など、アメリカの中枢からは、アフガニスタンを安定させようとする方向の戦略と、不安定にしておこうとする戦略の両方が出ていると感じられる。こうした交錯ぶりは、911事件以来、米政権内部で続いてきた「中道派対ネオコン」の対立を思わせるものでもある。



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