欧亜の狭間で揺らぐトルコ

97.03.03-

 トルコの大都市、イスタンブールは、ボスポラス海峡をはさんで、欧州とアジアをまたぐ場所にあり、文化的にも東ローマ帝国の遺産であるキリスト教的なものと、オスマン帝以来のイスラム教的なものが交じり合う、エキゾチックな町として知られている。
 だが、最近のトルコでは、イスタンブールが示すような、欧州とアジアの両方の特性を持っていることが、まさに欧州の一員となることを目指すのか、それとも中東イスラム世界の一員となるのか、という選択の迷いを生み、政治的、社会的なジレンマとなっている。

 トルコについては、次のようないくつかの原稿を書く。

イスラム原理主義に向かうトルコ政府
なかなかEUに入れないトルコ 97/03/21

(以下は執筆予定)
トルコで軍事クーデターの可能性高まる
トルコはアフガンから欧州に向かう麻薬ルート、マネーロンダリングも問題に


イスラム原理主義に向かうトルコ政府

97.03.03

 トルコに興味がある人なら、ケマル・アタトゥルクという人名をご存知だろう。彼は、権力が弱体化していたオスマントルコのスルタン(王様)を1922年に退位させ、現在につながるトルコ共和国を設立して初代の大統領となった軍人・政治家で、「建国の父」と呼ばれている。トルコのお札は(作者の記憶では)全ての額面に、彼の顔が描かれている。トルコでは、それほどに絶対的な存在である。

 そのアタトゥルク氏が、トルコを近代化する際、非常に重視したことは、近代化を阻害するであろうイスラム教のしがらみから国民を解き放つことであった。たとえば、伝統的なイスラム社会では、女性が公共の場に出るときは、顔や身体の線が見えて男を挑発してしまわないよう、ベールをかぶり、くるぶしまで届く長い服を着なければならないが、アタトゥルクは公務員が役所で、また学生が学校で、ベールを着用することを禁止した。

 トルコは国民の90%以上がイスラム教徒である。それなのに「ベールをかぶらなくても良い」ではなく「かぶってはならない」としたのだ。それほどにアタトゥルクとその同志たちは、イスラムの伝統から人々を強制的に解放しない限り、近代化(欧州化)はできないと思ったのだろう。日本の明治政府が、国民の中にある江戸幕府400年のしがらみを抜くため、ちょんまげや帯刀を禁止したのと同じ理由からだった。(最近のアフガニスタンやホメイニ革命後のイランで起きたことと全く逆の動きである)

 イスラム教のコラーンには、政治経済の法律体系(イスラム法)まで書かれており、イスラム教国家は、政治や経済もコラーンによって運営せねばならず、オスマントルコもイスラム法によって統治されていた。政治の非イスラム化を強く進めたアタトゥルクの後、現在に到るまでの約70年間、トルコでは、政治は欧州式の議会政治とし、イスラム教は宗教面のみとする政教分離の体制が続いてきた。

 ところがトルコでは最近、政府がイスラム回帰の傾向をしだいに強めつつある。昨年6月に就任したエルバカン首相はもともと、イスラム教に基づく政治体制を目指していた人で、首相になる前は、欧米諸国で作るNATO(北大西洋条約機構)に対抗して中東諸国などで作る「イスラムNATO」を作り、トルコはNATOを脱退して「イスラムNATO」に参加するとの構想や、EUやNAFTAに相当する国際共同市場をイスラム諸国も作る「イスラム共同連合」構想などをぶち上げており、彼が率いる「福祉党」(Refah)は、イスラム主義者たちの集まりとして知られている。

 そのエルバカン氏、首相に就任した当初は、NATO脱退や国家体制の急激なイスラム化などの政策を引っ込めていたが、今年に入って本来のイスラム主義に基づく政策案を相次いで打ち出した。女性の公務員へのベール着用禁止令を廃止する案や、イスタンブールのキリスト教会が多い地域にモスク(イスラム教寺院)を建設する案、学校教育のイスラム教色を強める案などを相次いで出してきた。

 これには野党がいっせいに反発し、2月15日には首都アンカラで、ベール禁止令の撤廃に反対する女性たちによる大規模なデモ行進も行われた。これを受けて、当初は「ベール着用禁止を撤廃することは、思想信条の自由に対する規制を廃止することであり、イスラム教の強制ではない」などと言っていたエルバカン首相はしだいに窮地に追いつめられ、2月初旬に改めて「政教分離の現体制を維持する」と表明せざるを得なくなった。

 エルバカン首相は、外交面でもイスラム回帰を進めようとした。昨年9−10月には、首相としての外国旅行の訪問先にイスラム教色の強いリビアとイランを加えた。イスラム教徒が多い国家間のきずなを深めようとしたのだが、これは大失敗に終わった。エルバカン首相は、リビアの最高権力者カダフィ氏と会談した際、自国内のクルド人への攻撃や、国内に米軍基地を置いていることに関して、語気荒く非難されてしまい、これがトルコ国内でも大々的に報じられた。

 エルバカン首相はカダフィ大佐に「トルコには、クルド人問題はありません。あるのは(クルド人ゲリラによる)テロリズム問題です」と言った。ところが、カダフィ大佐はこの言葉じりを捉え「では二人で、テロリズムに反対する声明を世界に発表しましょう」と持ち掛けた。リビアのいうテロリズムとは、米国がリビアを攻撃したこと、イスラエルがアラブ諸国を攻撃したことを指していた。そしてエルバカン氏は、リビアが米国政府によるテロの犠牲者であることに同意してしまった。トルコは、米国とともにNATOに加盟している上、イスラエルとの間でも軍事協定を結んでいるにもかかわらず、である。イスラム世界の名士を目指したエルバカン首相の拙い言動により、欧米諸国はトルコへの不信を強める結果となった。(この段落の事実経緯は96年10月10日のウォールストリート・ジャーナルによる)

 トルコで行われた調査では、国民の80%が政教分離に賛成している。しかも、エルバカン政権は、国民の圧倒的多数によって支持されて登場したのではなく、国会内の政権争いの結果、「ひょうたんから駒」的に政権を獲得している。
 95年に実施された国政選挙では、エルバカン氏の福祉党が21%の得票、中道右派の「正道党」と「祖国党」は、相互に多数をとりたいあまり、選挙協力をしなかったため、それぞれ19%ずつしか得票できなかった。選挙後、最初は正道党のチルレル党首(女性)が首相になったが、祖国党との間の連携がとれず、結局、福祉党と正道党が連立を組み、エルバカン氏が首相となり、チルレル女史は外務大臣になった。エルバカン氏のリビア訪問は、チルレル外相の反対を押し切っての出発だった。(チルレル女史が連立政権に参加したのは、自らの麻薬取引関与疑惑=別稿で説明する予定=を問題にされたくなかったからだとも言われている)

 イスラム教の世界では、たとえばサウジアラビアでは、王室が腐敗している上、聖なる国土の上に、異教徒である米国の軍隊の駐留を許しているのはけしからん、と考える人がおり、イスラム原理主義への共感者が増えているらしい。
(過去の記事「国家体制の危機しのび寄るサウジアラビア」 -96.11.28- 参照)

 だが、政府はイスラム教を強化したいが、国民は必ずしもそうではない、という点で、トルコの動きはこれと反対である。その背景には、トルコは地理的に欧州に近いうえ、「近代化」が始まったのが1920年で、日本の明治維新の時期に近く、第二次大戦後になってから国家建設を盛んにした他のイスラム諸国の多くとは歴史的経緯も違う、ということがあるようだ。
 トルコに関するガイドブックなどには、「トルコは親日的な国で、その一因は日露戦争で日本が(トルコ人にとっても仮想敵国である)ロシアを打ち破ったからだ」などと書いてあるが、むしろ、上に述べたような伝統社会から欧米型社会をめざし、紆余曲折してきた歴史が両国に共通しているということが、トルコ人の親日感情に結びついているのかもしれない。日本ではトルコの歴史など全く教えないので、親トルコの気持ちが生まれる可能性がほとんどないのだが。
 また、イスラム諸国の中でも、戦後、近代化をはかった国では、ソ連からのてこ入れもあり、社会主義=反米思想と、イスラム原理主義=反イスラエル・反欧米キリスト教思想が、結びつきやすい状況だったように思う。(ソ連が中央アジアのイスラム教徒を弾圧してきたことを思うと、この図式はソ連による詐欺のにおいがするが)

 トルコでは、エルバカン首相のイスラム化傾向に対して、軍が強く反発している。アタトゥルクの影響を今も強く受け、しかも冷戦時代に、米国から手厚い支援を受けたため親米的な幹部が多いと思われるトルコ軍は、以前からイスラム原理主義には反発してきた。このことは、また別の原稿で述べていくことにする。

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