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ロシア学校占拠事件とプーチンの独裁

2004年9月28日   田中 宇

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 9月初めにロシアの北オセチア共和国ベスランで起きた学校占拠事件は、330人以上の犠牲者を出す大惨事になって終わった。事件後、チェチェン共和国でロシア連邦からの分離独立を主張しているゲリラの指導者であるシャミル・バサエフが犯行声明をインターネット上で発表した。ネット上での発表なので信憑性に疑いもあるが、バサエフはこれまでに何度も人質事件や爆破テロ事件を起こし、それを自らの犯行として認めており、欧米やロシアの分析者たちは、今回の学校占拠事件もバサエフが計画したものと考えていた。(関連記事

(声明はリトアニアにあるチェチェン独立支持サイトkavkazcenter.comに出たが、このサイトはその直後にロシア政府からの圧力で閉鎖された)

 バサエフは、1994−97年にロシア軍がチェチェンに侵攻した際、ゲリラ戦法でロシア軍を破って敗退させ、一時はチェチェン共和国だけでなく、周辺のカフカス地方全体で英雄として知られていた。だがバサエフは、チェチェンを含むカフカス全体がロシアの帝国的な強権支配に対抗して立ち上がり、ロシアからの独立を戦いとるべきだという理想を追求するあまり、戦争に疲れて「ロシアの支配下でも良いから安定した社会を作った方が良い」と考えるカフカスの人々の傾向を嫌い、カフカス全体を混乱させてロシアとの戦いを永続化しようとする戦法をとって、テロ的な事件を繰り返すようになった。その事件の一つが、今回のベスランの学校占拠である。カフカスの人々の間では、バサエフに対する支持はかなり減っていると指摘されている。(関連記事

 地元の人々の支持を失ったものの、バサエフを支援する勢力は他のところから現れた。その一つは、ロシア当局内の反プーチン勢力である。また、プーチンが大統領になるまでロシアの政権中枢を牛耳っていたが、その後プーチンとの権力闘争に敗れて亡命や投獄を余儀なくされている「オリガルヒ」と呼ばれるロシアの数人の大富豪、特にその中でもロンドンに亡命しているボリス・ベレゾフスキーも、ここ数年バサエフを支援している。

 そのほか、アメリカの「ネオコン」勢力も、ベレゾフスキーがバサエフを支援するようになってから、歩調を合わせるように「チェチェンの独立支援」という形式をとってロシアを弱体化するための政治運動をワシントンで展開している。(ネオコンは1999年に「チェチェンの平和のためのアメリカ委員会」というチェチェン独立支援団体を作った)

▼プーチンの独裁強化は政争の一部

 バサエフは、今回の学校占拠事件だけでなく、2002年のモスクワ劇場占拠事件(約130人が死亡)、今年2月のモスクワの地下鉄駅での爆破テロ事件、5月のチェチェンでのカディロフ大統領爆殺事件、6月にチェチェンのとなりのイングーシ共和国で起きた警察署襲撃事件(警官ら90人が死亡)、8月の飛行機墜落事件など、いくつものテロ事件を計画・指揮したことを認めている。これらの事件はプーチンと、ベレゾフスキーらオリガルヒとの権力闘争が激化した時期と一致しており、プーチンが独裁的な権力者として台頭し、ロシアが安定・強化されることを好まない勢力がバサエフのテロを支援したことがうかがえる。

(オリガルヒは1999年までのエリツィン政権時代にロシア政府を牛耳ったが、彼らはその権力を使って冷戦後のロシアをどう再生していくかという方向性を持っておらず、自分たちの金儲けとロシアの混乱を持続させることしかやらなかった。そのため、オリガルヒは、アメリカのタカ派やネオコンなど、ロシアを弱体化させておきたい米英勢力の意を受けた存在だったのではないかと私は考えている。オリガルヒについては、過去の記事その1その2を参照してください)

 ベスランの学校占拠事件の直後、プーチン大統領はロシア各州の知事を直接選挙制から大統領による任命制に戻すとともに、議会内の「無所属」の議員を潰すことを目的にした議会選挙制度の改変(比例代表制の徹底)を決定した。これは欧米などのマスコミからは「プーチンがテロを口実にロシアの民主主義を潰し、独裁制を強化した」と批判されている。だが、エリツィンの時代に拡大されたロシアの民主主義は、結局のところ政治的な混乱を広げただけだった。(関連記事

 知事の任命制も議会の無所属追放も、ベスラン事件のずっと前からプーチンが考えていたことで、学校占拠事件を「オルガルヒ対プーチン」の権力闘争の一環として見るなら、テロによってロシアが不安定化させられることに対抗してプーチンが自らの独裁を強化することは理解できる。(関連記事

▼難しいロシアとチェチェンの和解

 とはいうものの、チェチェンに対するプーチンの政策は行き詰まっている。今年5月に、親ロシアの姿勢をとりつつもチェチェンの人々にある程度の人気があったカディロフ大統領をバサエフに爆殺された後、ロシア政府は8月末にアルハノフという後任の大統領を「不正」と批判された選挙を経てチェチェンに据えたが、アルハノフはFSB(ロシアの特務機関。かつてのKGB)の出身であり、チェチェンの人々にほとんど信任されていない。

 アルハノフは弾圧の力を使ってしかチェチェンを統治できないだろうが、弾圧を受けるほど人々はロシアを憎むようになる。チェチェンには、バサエフら独立派を支持して戦争に巻き込まれることに疲れ「ロシアの支配下でも仕方がない」と思っている人が多いのに、プーチン政権はそれを活用して信任を集めることができない状態になっている。

 その一方で、もし今後ロシア軍がチェチェンから撤退した場合、その後のチェチェンは安定せず、チェチェン人内部で部族どうしが対立して混乱する可能性がある。冷戦後、チェチェンは1993−94年と97−99年の2回、ロシアの支配から出て自治や独立状態を経験したが、いずれもチェチェン人どうしの派閥争いが激化し、最後はロシアの軍事介入を招いている。山岳地帯に住むチェチェン人は、アフガン人などと同様、部族ごとの自主独立の気風が強く、ロシアという巨大な敵の前では一致団結するが、それがいなくなると団結力が弱くなる。

 チェチェンとロシアは、独立でも軍事支配でもない新たな共存共栄のメカニズムを作る必要に迫られているが、敵対関係を払拭するのはかなり難しい状態になっている。

▼当局は事件を解決したくなかった?

 ベスランの占拠事件には不可解な点が多い。その一つは、現場で指揮していたロシア当局者のやり方がずさんで、事件を解決する気があったのか疑問を抱かせることである。

 立てこもり事件が起きたら、現場の治安部隊はその周囲を立入禁止にするのが常識的な対応策だろうが、ベスラン事件の担当者たちは、それをやらなかった。そのため、学校の近くまで武装した一般市民が入り込む事態となり、9月3日午後に学校内で偶発的な爆発が起こって現場が混乱したとき、この「武装市民」たちがいっせいに学校に向かって銃撃を開始して当局側も止められない状態となり、多数の死者が出る惨事に発展してしまった。(爆発は、犯人の一人が間違って爆弾の仕掛け線を引っ掛かけて起きたと考えられている)

 そのとき現場の学校内には、犯人側から信頼されて仲裁役となっていた隣のイングーシ共和国のルスラン・アウシェフ元大統領がいた。アウシェフによると、爆発の後、銃撃が始まったので、携帯電話で犯人側と当局側の双方に電話して銃撃戦を止めるように言ったが、双方が撃つのをやめたのに、まだ銃撃が続いていた。撃っていたのは、爆発を機に勝手に現場に入り込んだ武装市民たちだった。犯人側は、これを当局側の突入と勘違いして銃撃を再開し、最後は自爆した。その過程で多くの人質が撃たれて死んだ。武装市民たちは地元の自警団だったのではないかとされているが、正体は不明のままだ。

 人質釈放に向けて犯人側と交渉しようとした人もいたが、そうした動きはあちこちで妨害にあった。事件発生が報じられた直後、チェチェン人ゲリラの指導者たちと親しいモスクワ在住のジャーナリスト、アナ・ポリトコフスカヤは、チェチェンのアスラン・マスハドフ元大統領(現在はロシア当局に追われてチェチェン領内に隠れている)に犯人側との交渉を仲裁してもらうのが良いと考え、ロンドンに亡命しているマスハドフの側近に電話して話を進めた。(ポリトコフスカヤは2002年のモスクワ劇場占拠事件でも、犯人と当局との仲介を行った)

 だが、その後ポリトコフスカヤが現場のベスランに駆けつけようとしてモスクワから飛行機に乗ったところ、機内で出されたお茶に睡眠薬が入っていたらしく彼女は意識不明になってしまった。その後、病院で手当てを受けて回復したものの、そのときにはすでに事件は悲惨に終結していた。ポリトコフスカヤは、同じ機内にFSBの特務機関員と思われる3人組の男たちが乗っており、睡眠薬入りのお茶を出させたのは彼らだったのではないか、と書いている。(関連記事

 その一方で、犯人側は何カ月も前から犯行を計画し、夏休みに学校の校舎の修繕工事が行われている最中に工事関係者を装って校内の床下に爆弾を隠すなど、入念な準備を行っていた。犯人たちが移動する際は、地元の警察官たちに金をつかませ、チェックポイントでの検問を素通りしていた。(関連記事

 しかも、入念な準備が行われた割には、30数人の犯人の中の2人の女性のメンバーは、人質をとった後に「子供たちを人質にするのは良くない」とリーダーに反抗しており、リーダー格以外の犯人たちは事前にどのような犯行を行うか知らされていなかった感がある。リーダーは、反抗したメンバーを別室に入れ、そこで彼らの腰に巻かれていた自爆テロ用の爆弾を爆発させて殺してしまった(他に1人の男性メンバーもリーダーに異議を申し立てて射殺された)。(関連記事

▼事件に荷担した当局者は誰か

 これらの出来事からは、ナショナリズムに燃えたチェチェン人やイングーシ人がロシアの軍事抑圧をはね返すために立ち上がり、ゲリラ的な人質事件を起こした、といった純粋な話ではなく、もっと政治的な謀略として事件が行われ、ロシア側の当局の中にも加担者がいた可能性が大きい。

 このことと、プーチン大統領が事件後に自らの権限を急拡大させたり、マスコミの報道を規制したりしたことを関連づけて「ベスラン事件はプーチンが起こした謀略だ」と考える人もけっこういる。だが私から見ると、こうした考え方は、ここ数年のロシアにおける権力闘争との関係で見る視点が欠けている。

 ベスラン事件にFSBなどの特務機関が関与していた可能性は強く、プーチンがFSB出身であることも事実だが、FSBの内部には「シロビキ」と呼ばれるプーチンが重用する愛国主義的な傾向が強い派閥と、オリガルヒやエリツィン元大統領の側近ら「ファミリー」と呼ばれる派閥に近い勢力の、少なくとも2つの流れがある。事件にFSBが関与していたとしても、どちらの派閥かということは判然としない。

 ロシアのチェチェン侵攻に先立って1999年夏にロシア各地で起きたアパート爆破事件も、FSB長官から首相になったばかりのプーチンが、チェチェン侵攻の口実を作るためにFSBを動かして行ったとする説が根強く、こうした見方の尻馬に乗ってオリガルヒのベレゾフスキーが「あれはプーチンがやったのだ」と発言したりしている。

 私も以前はそう考えていたのだが、これもプーチン対オリガルヒの政治戦争の一環として見た方が良いと、ロシアについて調べるうちに思うようになった。そもそも、当時は首相のプーチンより、エリツィン大統領のファミリーを操っていたベレゾフスキーの方が権力が強かった。プーチンではなく、FSBの中でもベレゾフスキー配下の勢力がやった可能性すらありえる。

▼独裁を倒してもロシアは良くならない

 1990年代半ば以降のロシアにおいては、マスコミはオリガルヒの持ち物であり、ベスラン事件で政府批判を展開してクレムリンから圧力を受け、編集者が首にされた「イズベスチヤ」も、オリガルヒの一人であるウラジミル・ポタニンが所有している。ベレゾフスキーが所有する経済紙「コメルサント」も、プーチン批判を展開しているが、これらの動きは「報道の自由」をめぐる問題として見るより、政治闘争として見た方が良い。(関連記事

 プーチンは確かに独裁者で報道の自由を規制しているが、プーチンが弱体化し、ロシアが再び混乱して喜ぶのは、オリガルヒやネオコンである。自由や民主主義、人権などを標榜しつつ「独裁者を倒せ」と叫ぶ勢力に賛同して独裁政権を倒す戦争に賛成し、その結果、民主化どころか大混乱を招いてしまったことを、私たちはすでにイラク戦争において経験したはずだ。

 ロシアだけでなく中国などをめぐる話にもいえるが、欧米人や日本人が「独裁政治を倒せ」と叫ぶことは、ロシアや中国の人々の暮らしを良くすることにはつながらず、英米の好戦的な勢力による巧妙な破壊作戦の一端を知らないうちに担がされていることになりかねない。

 バサエフによる独立戦争がチェチェンに安定と平和をもたらさなくなったのは、1999年にバサエフが隣国ダゲスタンに侵攻する事件を起こしてからのことだが、この事件にはオリガルヒとアルカイダが協力し、そしてその背後にはアメリカのタカ派やネオコンの戦略が存在していた。このことは、あらためて書く。

【「ロシア学校占拠事件とチェチェン紛争」に続く】



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