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イスラエル右派を訪ねて(下)

田中 宇

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この記事は「イスラエル右派を訪ねて(上)」の続きです。

 アロンシャブートの入植地から、さらに国道60号線を全速力で南に30分ほど走ると、ヘブロンにつく。ここは世界最古の町の一つで、今ではパレスチナ人の町ヘブロンと、ユダヤ人の入植地キリヤットアルバとが、隣接する双子の町として存在している。私は、2001年に旅行したときはヘブロンを訪れ、2002年にはキリヤットアルバを訪れた。

ヘブロンの位置を示す地図

 ヘブロン周辺は、エルサレムと同様、イスラエルとパレスチナとの間の陣取り合戦の戦場となっている。ヘブロンには、ユダヤ人の始祖と信じられている聖書の登場人物アブラハムの墓があるからで、それを「奪還」しようとするユダヤ人と、奪われまいとするパレスチナ人とがぶつかっている。

 アブラハムは紀元前1650年ごろ、ヘブロンにある洞窟周辺の土地を、当時ヘブロン周辺に住んでいたヒッタイト人(ヘト人)から買い取り、自らを含む一族の墓所としたと旧約聖書の創世記に書かれている。この洞窟は「マクペラの洞窟」と呼ばれ、重要な聖地となっている。アブラハムが洞窟周辺の土地を買ったことは書物の中の架空のことではなく、歴史的な事実だとされ、この取引によりユダヤ人はこの地に住む権利を持ったとイスラエルの宗教右派の人々は主張している。

 アブラハムの物語は、イスラム教でもコーランに「イブラヒム」の話として載っている。イスラム教では、イブラヒム(アブラハム)は「最初のイスラム教徒」である。このため、マクペラの洞窟は、ユダヤ教とイスラム教の両方の聖地となっている。ヘブロンという町の名前はヘブライ語で「友だち」という意味が語源で、アブラハムと神とが親しい存在だったことからこのような地名がつけられている。ヘブロンの町は、アラビア語では「アルカリル」と呼ばれているが、これもアラビア語で「友だち」という意味だ。

 宗教右派のイスラエル人は「ムハンマド(モハメット)は、若いころユダヤ人の友人が多かったので聖書に対する知識が豊富だった。それで聖書の内容をパクってコーランを書いたのだ」などと言うが、イスラム教徒のパレスチナ人は「聖書もコーランも神が人間に伝えたものであり、神が伝えてきた内容が似ているので、アブラハムの話が両方に出てくるのだ」と言う。

 その後紀元前1世紀に、マクペラの洞窟を覆うかたちで「ヘロデ王の城壁」と呼ばれる城が作られたため、今では洞窟そのものを見学することはできず、大理石の城の中に後世にしつらえられたアブラハムやその一族の墓所を見ることができるだけだ。城の床下にはアブラハム当時の洞窟があり、オリジナルの墓所も存在しているというが、その正式な調査は行われていない。

 紀元1世紀にローマ帝国によってユダヤ人の国が滅ぼされた後も、ヘブロンには細々とユダヤ人のコミュニティがあった。7世紀にイスラム教が興ってヘブロンはイスラム教の聖地となり、マクペラの洞窟上のヘロデ王の城は「イブラヒム・モスク」に代わった。ヘブロンはイスラム教の聖地となり、イスラム教徒の町として栄え始めた。ユダヤ教徒はヘロデ王の城壁の中に入ることを許されず、城の入り口の階段の途中の7段目までしか上がることを許されなくなり、階段の7段目でお祈りが行われるようになった。

▼ホテルを借り切って入植地に

 近代に入り、1920年代にユダヤ人がパレスチナに帰還するシオニズム運動が盛んになり、ヘブロンのユダヤ人口も増え出した。移民増加にともなって地元のイスラム教徒との摩擦が増え、1929年にはイスラム教徒が反乱を起こしてヘブロンのユダヤ人67人を殺害する事件が起きた。その後、パレスチナ一帯を植民地支配していたイギリス帝国は、ユダヤ人がヘブロンに住むことを禁じた。その後、イスラエルが第三次中東戦争に勝ってヘブロンを含む西岸地域をヨルダンから奪って占領した1967年まで、ヘブロンにはユダヤ人が住んでいなかった。

 イスラエルがヘブロンを占領した後、地元のイスラム教徒の代表たちは譲歩し、ユダヤ人は再びヘロデ王の城壁内に入れるようになった。それとともに、ヘブロンへのユダヤ人の再入植も始まった。当時のイスラエルの労働党政権は、アラブ側から和平条約など有利な譲歩を得る見返りに、占領地をゆくゆくは返還しようと考えていたから、ヘブロンへの再入植を制限した。宗教右派の人々が入植を進めると、地元のイスラム教徒パレスチナ人との紛争を引き起こし、アラブ側との和平が困難になりかねなかった。

 西岸をイスラエルが占領した後も、マクペラの洞窟とその上に建つヘロデ王の城壁自体の管理権は、イスラム教徒の側が保持していたが、イスラエルの宗教右派勢力は、これをユダヤ教徒が奪還する必要があると考えた。

 宗教右派勢力は1968年、ラビ(ユダヤ教指導者)のモシェ・レビンガー(Moshe Levinger)が「ヘブロンに再入植しよう」と呼びかける新聞広告を出して32家族を集め、ヘブロンの中心街にあるパークホテルの全室を借り切ってチェックインした。初めは「過ぎ越し祭」を聖地で祝うという名目で10泊を予約したが、その後、パレスチナ人のホテル経営者との間で長期の延泊契約を結んだ。パークホテルはかつてヨルダン人の避暑地として賑わっていたが、西岸がイスラエル占領下に入った後、客足が途絶えて困っていたホテル経営者は喜んで長期延泊に応じたという。

「メシア(救世主)が降臨するまでこのホテルに住む」と宣言するラビと交渉せざるを得なくなったイスラエル政府は、宗教右派に対し、ヘブロン中心街に住み続けることをやめる代わりに、ヘブロン郊外のキリヤットアルバ地区に入植地を作ることを認めた。これ以降ヘブロンは、イスラム教徒パレスチナ人の地域であるヘブロン旧市街と、ユダヤ教イスラエル人の地域(入植地)であるキリヤットアルバからなる双子の町となった。

▼入植地を守る口実でイスラエル軍が入り、既成事実化

 キリヤットアルバは、マクペラの洞窟から1キロほど離れており、宗教右派にとっては、聖地を奪還したことにはならなかった。このため宗教右派の人々は、次の作戦を展開した。

 1979年3月のある夜、ラビ・レビンガーの妻ら50人の女性と子供が、闇夜に乗じてキリヤットアルバからヘブロン旧市街の中心近くにある空き家の建物に入り込み、そこに住み着いた。「ベイト・ハダサ」(Beit Hadassah)と呼ばれるこの空き家は1929年の暴動以前、ヘブロンのユダヤ人コミュニティの病院だったところで、そのため宗教右派は「われわれはこの家に住む権利がある」と主張した。

 イスラエル国内の世論は、この移住に対する賛否をめぐって分裂したが、入植者たちが立ち退きを拒否し続けたため、イスラエル軍が入植者を守るために詰め所を作り、ベイト・ハダサの存在は既成事実となった。

 この小さな入植地は、パレスチナ人のヘブロン市民たちが買い物をする商店街を見下ろす場所にあり、パレスチナ問題が紛糾するたびに、入植者が上から商店街の通行人に向かって岩を落としたり発砲したりし、パレスチナ側が応戦して市街戦が起きる、ということが繰り返されている。

ベイト・ハダサとマクペラの洞窟周辺図

 この後、ベイト・ハダサやマクペラの洞窟の周辺で、同じように宗教右派のイスラエル人がユダヤ人とつながりのある建物を占拠して小規模の入植地にするケースが相次いだ。

 1993年にオスロ合意が成立し、ヘブロンを含む西岸地域の多くがパレスチナ人側に返還される方向性が決まると、キリヤットアルバの宗教右派の人々は猛反対した。彼らの中の一人でアメリカから移住してきたバルーフ・ゴールドスタインという男性が1994年2月、イブラヒム・モスクに行って礼拝中のイスラム教徒たちに向けて銃を乱射し、30人近くが死ぬという「ヘブロン乱射事件」が起きた。

▼準国家的な事業になったヘブロン占領

 マクペラの洞窟では、それまでイスラム教徒とユダヤ教徒が混在して祈っていたが、この事件以降、ヘロデ王の城塞内部に新しく壁を作って半分ずつに分け、イスラム教徒のための礼拝場とユダヤ教徒のための礼拝場とを分離した。

 オスロ合意の締結後、イスラエルとパレスチナの両方の人々に「これからは平和だ」と明るく考える風潮が広がっていたが、その楽観は、この乱射事件とともに吹き飛んだ。乱射事件の報復としてパレスチナ過激派「ハマス」による自爆攻撃が起こり、翌年には、和平を進めようとしたラビン首相が殺されてしまった。

 それでも進んだ和平交渉によって、パレスチナ人への自治の移譲が進められ、西岸全域がA(自治区)B(準自治区)C(占領区)の3地区に区分された。だがヘブロンではベイト・ハダサ周辺など、イスラエル人の居住地がパレスチナ人居住区と隣接した場所がいくつかあり、それを理由にイスラエルの右派勢力がパレスチナ側への自治移譲に反対した。

 このため、ヘブロンだけは別口で交渉が行われた結果、ヘブロンとキリヤットアルバ周辺は、すべての権限をパレスチナ側に移譲する「H1」地区と、治安維持はイスラエル側が保持する「H2」地区に区分されることになった。マクペラの洞窟やベイト・ハダサなどの周辺は、キリヤットアルバから半島状に突き出るかたちでH2地区に入れられ、これらの地域にイスラエル軍が駐留し続けることが認められた。

 加えて、イスラエル側はH1区域内であっても、イスラエル人の安全を守る必要がある場合は軍事行動を行えるという規定も盛り込まれた。つまり、宗教右派の人々がパレスチナ側のヘブロン市街地の建物を占拠した場合、それを守るためにイスラエル軍が出動、駐屯することが、パレスチナ国家が成立した後も認められることになった。最初は「狂信的な宗教右派の勝手な行為」だったはずのヘブロンでの入植地建設は、いつの間にかイスラエル政府が後押しする準国家的な事業になっていた。

ヘブロンとキリヤットアルバ、H1とH2区域の地図

▼退屈な住宅街のような入植地

 私がキリヤットアルバを訪れたのは、平日の朝だった。イスラエル人のAさんが、自家用車を運転して私を案内してくれた。着いたのは朝9時すぎで、ちょうど通勤時間帯の終わりのころらしく、キリヤットアルバの主要交差点らしき道路の脇には、何人かの人々が、エルサレム方面に向かう車を待って立っていた。皆、ヒッチハイクでエルサレムに通勤するのだそうだ。

 先に紹介したアロンシャブート入植地のビテルボ夫妻の指摘にもあるように、入植地の人々は助け合いの精神が強い。そのため、エルサレムに向かう乗用車に空いた席があれば、交差点で待っている人を気軽に乗せる。キリヤットアルバの住民なら、みな政治的な信条も宗教右派で同じだろうから、気心も知れているのだろう。

 私たちも、エルサレムから来る途中、検問所の脇で一人の女性兵士を乗せ、キリヤットアルバまで乗せてきた。検問所の兵士から、彼女を乗せていってあげてくれ、と頼まれたのにAさんが応じたのだった。イスラエルでは、休暇で自宅などに帰る兵士は、道ばたで待っていると、だいたいすぐに車が止まってくれる。国民皆兵のイスラエルでは、兵士と一般市民との心理的な距離が近い。Aさんもすでに兵役をすませ、その後は毎年予備役としての徴兵をこなしている。

 キリヤットアルバは人口7000人の町だ。パレスチナ側のヘブロンの人口が20万人近いのに対し、町の規模はかなり小さい。町の中心地に行ったが、銀行が一つ、商店が何軒か並んでいるだけだ。道行く人も少ない。数人の非番の兵士が、一軒だけの軽食屋の店先のテーブルを囲んで座り、銃を傍らに置いてお喋りをしていた。兵士がいなければ、日本の大都市近郊の退屈な住宅街といった感じである。

 その軽食屋で、私たちも朝食をとることにした。間もなく兵士がいなくなった。店主は、兵士たちが何も買わず、自分たちが持参したパンなどを食べ、片づけもしないで立ち去ったと不満を言った。中年の店主は14年前、キリヤットアルバには商店がなかったので、こっちの方が商売になると考えて、エルサレムから引っ越してきたという。

▼昔はパレスチナ人と仲が良かったが・・・

 英語ができないという店主の話を、Aさんに通訳をしてもらって聞いていると、通りがかりの人が、イスラエル北部で自爆テロ事件があったと伝えてきた。ちょうど私が「ここに住んで危険を感じないか」などと尋ねていたときだったので、店主は「どこに住んだって危険さに変わりはないっていうことが分かるだろ」と素っ気なく答えた。

 小さなテーブルが2卓だけの狭い店の中には、一人だけ客がいた。アメリカ訛りの英語を話す老人で、正統派ユダヤ教徒らしく山高帽をかぶり、黒い背広を着ていた。

 73歳だという彼によると、1987年にインティファーダが始まるまで、キリヤットアルバのユダヤ人と、ヘブロンのパレスチナ人とは良好な関係にあり、彼はヘブロン旧市街にアラビア語の夜学に通ったり、イスラエル側より運賃が安いパレスチナ側のバスでエルサレムに行ったりしていたという。ヘブロン旧市街にはユダヤ人を嫌うパレスチナ人もおり、市場で刺されそうになったこともあったが、近くにいた他のパレスチナ人たちが犯人を取り押さえて助けてくれたという。

 87年のインティファーダ後も、まだユダヤ人がヘブロン旧市街を歩くこともできた。ところが2000年の第2インティファーダの発生後は、相互の関係は完全に悪くなり、もう旧市街に行くこと自体が危険になったという。キリヤットアルバの短い中心街を抜けるとゲートがあり、そこを出ると道はマクペラの洞窟やパレスチナ側のヘブロン市街に続いているが、ゲートを出ていくことは危険なのだった。

 そのゲートの脇に、バルーフ・ゴールドスタインの墓があった。1994年にマクペラの洞窟で礼拝中のイスラム教徒に向けて銃を乱射し、その場で殺された人物である。彼は、パレスチナ側だけでなくイスラエル側でさえ、一般には凶悪犯罪者として扱われているが、キリヤットアルバの宗教右派の人々にとっては、聖地奪還のために立ち上がった「英雄」である。大理石でできた墓石の周りは小さな公園のようになっており、並木道になっていた。

 毎年4月の彼の命日(乱射事件発生日)には、墓碑の前でゴールドスタインの「偉業」を讃える行事を行おうとする宗教右派の人々と、そういう行事を認めると国際的な非難を受けるので止めさせたいイスラエル当局との間で小競り合いが起きるという。

▼アメリカからの移住が多い入植者

 墓参の後、入植地の中を一周してみた。町を歩いている人はほとんどいない。まさに、昼間の退屈な郊外住宅地といった閑散とした雰囲気だ。パレスチナ側が展望できる丘の上の地域があったので、入植地とパレスチナ側との境界にある有刺鉄線つきの金網に沿って歩いていると、遠くの後ろの方から、一人の女性が私に向かって何やらヘブライ語で罵声を浴びせてきた。

 彼女に向かって「ヘブライ語は分かりません」と英語で言うと、彼女はきれいなアメリカ英語に切り替えて「ここで何をしているの?」と詰問してきた。日本人のジャーナリストだというと、意外そうな顔をして「フェンスを乗り越えてきたアラブ人かと思った」と言う。

 10年ほど前にアメリカから移民してきたという、60歳代かと思われる彼女は、幼い孫娘と散歩の途中で、フェンスの近くでうろうろしている私を見かけ、侵入者だと思ったのだった。フェンスの反対側は、すぐ近くまでパレスチナ人の住宅街が迫り、モスクの丸い屋根も見える。

「数年前まで、向こう側の住宅地はなく、フェンスの外側の一帯は荒れ地が広がっているだけだった。アラブ人はどんどん子供を産み、私たちを包囲するように家を建て続けている」と彼女は顔をしかめて言った。パレスチナ人から聖地を奪還しようとするイスラエル側の動きに対し、パレスチナ側からの反撃も静かに展開されているのだった。

(イスラエルの宗教右派の人々は「パレスチナ人」という民族の存在を認めたがらない。パレスチナ人は、ヨルダン人やエジプト人と同じくアラビア語を話すので「彼らはアラブ人の一部でしかない」と言う。パレスチナ人という存在を認めないことで、パレスチナ国家の建設も必要ない、という立場をとっている)

 この女性や、軽食屋で会った老人など、アメリカから移住してきた人が入植地には多いように思われる。アメリカから移住してきたパレスチナ人に聞いた話では、アメリカのユダヤ人の中には、1960−70年代のベトナム反戦運動に参加した後、挫折感を乗り越えるために自らのアイデンティティを追究した結果、ユダヤ人であることを強く意識するようになり、イスラエルに移住して宗教右派となって入植地に根づくケースが多いという。

 キリヤットアルバには「工業団地」もある。オスロ合意締結後、右派が力を入れて西岸各地に増やした入植地は「職住接近」を目指し、中小企業用の工業団地が併設されている。だが、長引く紛争でイスラエル経済全体が落ち込んでいる影響を受け、開店休業状態の工業団地が多い。キリヤットアルバの工業団地も、入植地で消費する物資のための倉庫など以外は、まったく人の気配がなく、企業の人に取材しようと考えた私の試みは果たせなかった。国防費の負担が大きいイスラエルは税率も高く、経済面では、宗教右派の作戦は明らかに破綻している。

▼外出禁止令のヘブロン

 キリヤットアルバを一周した私たちは、ゲートを出てマクペラの洞窟に行ってみることにした。危険かもしれないと思ったが、朝に立ち寄った商店の店主や、近くにいた兵士に尋ねると、危ないことはないという。

 ゲートを出ると、すぐにパレスチナ人の住宅街に入った。この日はヘブロンに終日外出禁止令が出ていたようで、通りにはまったく人の気配がなく、ところどころにある商店のシャッターも降りていた。

 ハンドルを握るAさんは「さすがに怖いですね」と言いながら、無人の町を全速力で走り抜けた。数分でマクペラの洞窟の前の駐車場に着いた。ここにはイスラエル軍が駐屯しており、途中の道路に比べ、パレスチナ側から攻撃を受ける心配は少なかった。数日前にパレスチナ人の町ラマラに行ったときは、イスラエル兵がこちらを攻撃してくるかもしれない恐怖感があり、パレスチナ人は仲間だったが、ここでは逆にパレスチナ人が攻撃してくるかもしれないという恐怖感があり、イスラエル兵は自分を守ってくれる存在だった。

 2宗教で半々に分離されている現在のマクペラの洞窟は、ユダヤ教徒とイスラム教徒で入り口も違う。キリヤットアルバからの道はユダヤ教徒の入り口に通じ、パレスチナ側のヘブロン市街地からの道はイスラム教徒の入り口に通じている。私のようなどちら側でもない外国人は、両方を見学することができるが、ユダヤ人やパレスチナ人が反対側を訪れることはまずない。

 私はこれまでに3回、パレスチナに来るたびにマクペラの洞窟を訪れ、前回までの2回は東エルサレムからパレスチナ側のバスに乗ってヘブロンに行き、パレスチナ側の市街地から洞窟に達したが、この日は初めて反対側から着いた。

 ヘロデ王の城壁の中は、キリヤットアルバから通ってきたと思われる正統派ユダヤ教の格好をした何人かの人々以外に、遠慮して入らなかった奥の方の部屋に人々の気配がした。最近の自爆テロ事件の被害者の遺族たちが、お葬式のために訪れているということだった。

▼「お前の故郷はここじゃない。アフリカだ」

 オスロ合意崩壊前、パレスチナ人が自由にヘブロンを訪問できた時代には、バスターミナルがあるヘブロン旧市街の中心街からマクペラの洞窟に至るカスバの中の細い道の両側にお土産屋がずらりと並んでいたという。私が初めてヘブロンを訪れた1997年には、まだ土産物屋の多くが開いていたが、次に訪れた2001年には、ほとんどすべての店が閉まっていた。

 パレスチナ側の中心街からマクペラに至る道は、ベイト・ハダサのイスラエル人ミニ入植地の脇を通っている。1997年にここを訪れたときは、ちょうどここで紛争が起きていた。私が訪れる少し前、ベイト・ハダサの入植者とパレスチナ人との間で撃ち合いがあり、イスラエル軍が治安維持を理由に周辺のパレスチナ人の商店に閉鎖を命じ、商店主たちが抵抗して店を開けるということが、毎朝のように繰り返されていた。パレスチナ人の商業を阻害することで、経済的にダメージを与える作戦と思われた。

 1997年に話を聞いた地元のパレスチナ人によると、ベイト・ハダサに住むイスラエル人の中には、北アフリカなどから最近移住してきたユダヤ人が多いという。彼らはイスラエル政府から生活支援を受けられると聞いてイスラエルに来たが、連れてこられたところはパレスチナ人との紛争の最前線にあるベイト・ハダサで、人間の盾として生活することになる。

「彼らは教えられた通り、ここは俺たちの故郷だ、とわれわれに向かって叫んだりする。われわれが、お前の故郷はここじゃない、アフリカだ、などと反論すると、激怒して攻撃してくる。移民たちの中には事の本質に気づき、ばかばかしくなって出ていく者もいるが、貧しい移民は次から次へとやってくるので、イスラエル当局がここに住まわせる人間に困ることはない」と、ベイト・ハダサの近所に住むパレスチナ人は言っていた。

▼聖書を使った理由づけに問題がある

 イスラエルの宗教右派の人々は、なぜこれほど攻撃的な姿勢をとるのだろうか。ユダヤ教の聖地をイスラム教徒と共有するというオスロ合意体制では、なぜいけないのか。キリヤットアルバの入植地組織の広報担当をしている人に取材する機会があったので、その疑問について尋ねてみた。

 その答えは2点あった。一つは「六日戦争(第3次中東戦争)は、アラブ側からの攻撃に対する反撃として起こり、われわれが勝った。これは(紀元前10世紀の)ソロモン王の時代にわれわれの祖先が古代イスラエル(ヘブライ王国)の土地を得たときの戦争と同じ勝ち方だ。このことから、われわれがユデア・サマリア(イスラエルでは西岸地区をこう呼ぶ)を得たのは、神の意志であると分かる。だから占領地を返してしまうことは神の意志に反する」という点。

 もう一つは「アラファトは信用できない。彼は西岸とガザを獲得したら、イスラエル本土も我がものにしようと戦い続けるだろう」ということだった。この主張は、他の宗教右派の人々が主張していることと、ほぼ同じだった。

 こうした話を聞いても、私の疑問はまだ解けなかった。古代と同じ歴史が繰り返されているから、西岸の占領が神の意志だというのは、何かこじつけの感じがする。イスラエル人からみるとアラファトは信用できない、という点は私も理解できる。だがアラファトを交渉相手に選び、チュニジアに追放したアラファトがガザに戻ってくるのを認めたのは、右派の敵である左派の労働党政権時代とはいえ、自国であるイスラエル政府である。

 イスラエル宗教右派の立場をあえて理解しようとした場合、考えられることは「アメリカの後ろ盾が失われたら、イスラエルはアラブより弱い立場に追い込まれ、すべての聖地を失うことになるかもしれない」という懸念である。イスラエルはもともと、アラブ人の土地を奪って作った国である。パレスチナ人を含むアラブ人たちが、すきあらばイスラエルという国自体を潰したいと思っていても不思議はない。

「聖書には、ここは私たちの土地だと書いてある」と主張することで、同じ聖書を使う欧米キリスト教徒たちを味方につけることはできる。ブッシュ政権の高官など、アメリカのキリスト教右派が親イスラエルなのがその表れだが、この主張は、現在の人類が前提としている国際法からみると無理がある。他人の土地に作った国家であるがゆえに、イスラエルは常に不安定さを抱えねばならず、そのことが紛争を解決不能なものにしている。



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