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世界を揺るがすイスラエル入植者

2005年7月5日   田中 宇

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 イスラエルで、政府のガザ撤退に反対する入植者のゲリラ活動が盛んになっている。オレンジ色のTシャツを着た入植者が、高速道路に座り込んだりクギを撒いたりして交通を止めたり、イスラエル軍兵士に連行される映像が世界に流れている。(オレンジ色は、撤退させられるガザのグシュカティフ入植地のシンボルカラー)

 イスラエルの入植者は、特異な政治活動家の集団である。「ゲリラ」とか「戦士」もしくは「テロリスト」というと、若い独身や単身の男性というイメージだが、入植者は、家族ぐるみでゲリラやテロ、戦闘行為を行ってきた。国際的にパレスチナ人の土地と定められた場所に家族で住み込み、子孫を増やしていくことが「政治闘争」の重要な要素になっている。片手に小銃を持ち、もう一方の片手で子供の手を引いて、家族連れで歩いている、というのが入植者のイメージである。

 1967年の第三次中東戦争で、イスラエルはエジプトからガザを、ヨルダンから西岸(ヨルダン川西岸)を、シリアからゴラン高原をそれぞれ奪い、占領地とした。1948年にイスラエルが建国する直前、国連はガザと西岸にアラブ人(パレスチナ人)の国を作ることを決議していたから、イスラエルは西岸とガザをアラブ側に返還するか、パレスチナ人に国家建設を認める必要があった。

 だが、イスラエル国内では「これらの土地は、聖書やバルフォア宣言によって、イスラエルの領土になると約束された場所であり、返還する必要はない」という意見が出てきた。そしてその主張に基づき、1970年代半ばごろから、イスラエル人が立ち入りを禁じられていた軍政下の西岸やガザに入り込み、パレスチナ人が使っていない乾燥した丘の上などに簡素な家を建てて住み、そこを事実上イスラエルの一部にしてしまうという政治運動を拡大していったのが、入植者だった。(関連記事

 1967年以降の西岸とガザは、イスラエルの行政機構の中で、イスラエル軍の管轄地域だったが、入植者たちは軍との関係を強化し、軍内で領土拡大論を鼓舞し、軍が入植活動を黙認する体制を作った。(日々パレスチナ人と戦争している入植者は、軍では重宝される存在だった)

▼入植地を郊外住宅地に変身させて仲間を増やす

 入植者は、周辺の町や村のパレスチナ人の土地を有刺鉄線で囲んだりして奪取し、翌日パレスチナ人と銃撃戦など衝突になると、それを抑えるためと称してイスラエル軍が入植地を警備するようになり、軍に守られるかたちで、入植地が拡大していった。パレスチナ人から見れば、入植者は「テロリスト」そのものだった。

 入植者たちは、イスラエルの二大政党のうちリクードに「政府は、聖書で約束された土地への入植に協力すべきだ」という論法で食い込み、1973年にリクードが創設されると、その右派として、党内の重要派閥となった。

 同様に、入植者たちはイスラエル政府の住宅省に食い込み、自分たちがパレスチナ人からある程度まとまった土地を奪うと、住宅省がそこに公共住宅を建設する体制を作った。入植地と、テルアビブやエルサレムといった大都市をつないで、広く快適な道路が建設され、入植地は大都市の会社に勤める普通の人が住む「郊外の住宅地」になった。

(快適な道路は、パレスチナ人の町や村を迂回する形で作られ、パレスチナ人の町村からその道路に向かう道には、イスラエル軍のチェックポイントが作られた。イスラエル人は自由に移動できるが、パレスチナ人の行動は制限された)(関連記事

 入植地の住宅は、一般の住宅よりもはるかに安く分譲され、広い家を安く買いたいという一般の人々が入居した。彼らも「入植者」となったが、それは「安く家を買う」という経済的な理由からであり、政治・宗教の動機から入植者になった、早くから活動していた「活動家の入植者」とは異質な人々である。

 とはいえ、動機はどうあれ、いったん自分の家を持った人々は、それを守ろうとする。後から政府や国際社会から「入植地は撤去すべきだ」と言われると強く反発し「絶対にどかない」と主張するようになる。その意味で、活動家の入植者たちは、入植地に公共住宅を建てさせることで、仲間を急速に増やすことに成功した。

▼「活動家」は40万入植者のうちのわずか

 入植地での公共住宅の建設は、1980年代以降、特にエルサレム周辺で盛んに行われた。1947年の国連決議で、エルサレムは東西に分割され、西半分がイスラエル、東半分はパレスチナの領土となると決められた。(もともと東半分にパレスチナ人が多かった)

 国連決議を拒否するイスラエルは、エルサレムの全部をイスラエルの領土にしようと、東エルサレムを取り囲むように入植地を作り、そこに次々と公共住宅の団地を増設し、間に住んでいるパレスチナ人をいろいろな名目をつけて追い出そうとした。

 現在、エルサレム周辺の入植地利用の団地には18万人、それ以外の西岸各地の入植地(その多くも団地形式)に23万人、ガザに8千人、ゴラン高原に1万6千人が住んでいる。合計するとイスラエルには43万人の入植者がいることになるが、このうち活動家の入植者はおそらく2−3万人と思われる。

 ガザにもグシュカティフなど広大な入植地があるが、入植者の数は少なく、しかも入植者のほぼ全員が政治活動家である。これは、西岸と違ってガザにはユダヤ人の聖地が少なく「約束の地」としての価値が低いことや、ガザはイスラエルの大都市から遠く、入植地に公共住宅を作っても入居する人が非常に少ないのに加え、イスラエルからガザの入植地に行くには、パレスチナ人の人口密集地を、パレスチナ人の交通を遮断した上で通らねばならず、不便で危険であることが理由と思われる。

▼入植運動はイスラエルでの「西部開拓」

 イスラエルの人々の中心は、欧州やロシアから移住してきたユダヤ人であるが、これに対して活動家の入植者の中心は、アメリカから移住してきた人々である。2002年に、私が西岸で最も政治的な過激な入植地の一つであるキリヤット・アルバ(ヘブロン)に行ったとき、出会った人の多くが流暢なアメリカ英語を話したのが印象的だった。(関連記事

 1968年、キリヤット・アルバの入植地を最初に作ったモシェ・レビンガー夫妻はアメリカ出身と聞いたし、1994年にユダヤとイスラムの両方の聖地である「マクペラの洞窟」でイスラム教徒に向かって銃を乱射したバルーフ・ゴールドスタインも、アメリカ出身だった。ゴールドスタインは、極右政治組織「カハ」に入っていたが、カハの運動を創設したメイア・カハネも、1971年にアメリカからイスラエルに移住してきた人である。(関連記事

 アメリカ出身の入植者の多くは、ニューヨークなど東海岸の出身のユダヤ人で、1960年代に起きたベトナム反戦運動に参加し、それが下火になった1970年代に、自分のアイデンティティを模索するうちに、イスラエルへの移住を決め、新境地を開拓する入植運動に参加したのだという話も聞いた。

 入植者の中には、アメリカ以外の場所から来た人も多い。私が2002年に取材したエルサレムの近くの入植地に住むビテルボ夫妻は、夫がイタリア出身、妻がアルゼンチン出身だった。(関連記事

 とはいえ、私が感じているところでは、イスラエルの入植運動は、その風合いがアメリカ的であることも確かである。家族そろって遠くの新しい土地に入植し、先住民を「敵」とみなして攻撃・殺害・追放し、入植地を拡大していく英雄物語は、アメリカではおなじみだ。「西部開拓」である。

 左翼運動に幻滅し、シオニズム(ユダヤ・ナショナリズム)の中でも右翼的な部門に転じたアメリカのユダヤ人青年男女が、1970年代に新天地イスラエルに移住し、それ以来30数年間、パレスチナ人という名の「インディアン」を撲滅させ、その後に理想の国を作る、という英雄物語を展開している。アメリカの建国神話とシオニズムという、カルト的な2つの理想追求運動が合体したのが、イスラエルの入植運動の本質ではないか、と私には思える。

▼イスラエルの力でアメリカに食い込む

 1970年代中ごろに、アメリカからイスラエルに活動家集団が移住したのは、70年代初頭からイスラエル政府がアメリカからの働きかけでアラブ諸国との和解に動いたことに、アメリカとイスラエルの右派が対抗した方策の一つだったと思われる。

 1973年にイスラエル政府(労働党政権)が第四次中東戦争で故意にエジプトに敗北し、その後アメリカが仲介してエジプトとイスラエルの和解交渉が始まり、1978年のキャンプデービッド合意で両国は和解して国交を回復し、イスラエルは占領していたシナイ半島をエジプトに返還した。

 イスラエルの右派は、この流れに対抗し、アラブ諸国から奪った占領地をイスラエル政府が返還できない状態にするため、アメリカから若い活動家の移住の流れを引き起こし、彼らに入植地を拡大させる戦法を採った。

 イスラエルの入植運動のもう一つの特長は、イスラエルの軍や政界で強い影響力を持つようになった入植者たちが、その政治力と二重国籍性を活用し、もともとの出身地アメリカの政界でも影響力を拡大し、アメリカを動かせるというパワーによって、イスラエルでも政治力をさらに拡大したことである。

 19世紀の欧州諸国でナショナリズム(民族主義)が勃興して以来、ユダヤ人は「よそもの」「異教徒」扱いされて抑圧・殺害された歴史があり、その影響でユダヤ人の中には、自分たちも欧州人に負けないナショナリズムを追究しようとするシオニストと、ナショナリズムを超越した国際主義を実現しようとする共産主義者という2つの動きが出てきた。

 1920年代にソ連でスターリンの独裁が始まり、トロツキーらユダヤ人の共産党幹部のほとんどが殺害・追放された後は、ユダヤ人の国際主義は米英を中心としたものに一本化されたが、それでも左派の傾向が強かった。

 イスラエル建国をはさんで1960年代までは、イスラエルで最有力の政党は左翼系のシオニストである労働党だったし、アメリカのユダヤ人の70−80%は、現在まで、右派・保守の共和党ではなく、左派・リベラルの民主党を支持している。

▼アメリカのユダヤ社会では右派は少数派なのに・・・

 入植者が信奉する、反共で、左派的な国際主義を拒否する右派のシオニズムは、従来のシオニズムの流れの中では傍流だった。それなのに、右派のシオニズムが成功したのは、反共主義を必要としていたアメリカの共和党や軍事産業の知恵袋になることで、政治の中枢に入り込んだことが一因だった。これは以前から何回も書いている「ネオコン」がアメリカ中枢に入ったことと一致している。ネオコンは、イスラエルの入植運動と一心同体の存在である。(関連記事

 もう一つ右派シオニスト(入植者)がアメリカの政界で力を付けたのは、AIPAC(アメリカ・イスラエル公共問題委員会)や、その他のいくつかのユダヤ系政治団体を活用し、政治力を資金に換え、資金を政治力に変質させる手法をやって成功したからだった。

 AIPACは1950年代に設立された団体で、1970年代から入植運動と連動したリクード右派系の団体となった。AIPACが最初に大々的な政治運動を行ったのは、1977年に米政府(カーター政権)がサウジアラビアに新型の戦闘機を売却したことに対し、ユダヤ系アメリカ人社会を代表するかたちで抗議した時だった。ちょうど、イスラエル政府がアメリカの仲介でエジプトとの和解に動いていたころである。

 前回の記事では、イスラエルを大きくしようとするシオニスト右派が、イスラエルを小さくしようとする国際社会(ロスチャイルド、イギリス、アメリカの協調主義派)や、小さいイスラエルで満足するシオニスト左派と対抗してきたと書いた。

 この構図に当てはめると、イスラエル建国から1967年の第三次中東戦争でイスラエルがアラブ諸国に大勝するまでは、シオニスト左派が強く、67年の圧勝を契機に右派が強くなったものの、対抗して左派と国際社会はイスラエルとエジプトの和解を皮切りに事態を和平の方向に持っていこうとし、1978年のエジプトとの和解を成立させた。それをはねのけるため、右派はアメリカから活動家集団を移住させ、占領地での入植運動を強化し、その一方でアメリカでAIPACなどを使ったイスラエル右派への支持活動を活発化させた、と見ることができる。(関連記事

▼天下無敵のAIPAC

 AIPACが強い政治圧力団体になれたのは、米議会のすべての議員について、中東政策に対する主張や、議会での投票行動を詳細に調べ続け、親イスラエルの議員には献金する一方、反イスラエルや親アラブの議員は、次の選挙でライバル候補に献金するなどして全力で落選させるという戦略を、何年間も続けた結果である。(関連記事

 911事件が起きるまで、ほとんどのアメリカ人にとって、自国の中東政策は関心の外だった。そのため、ほとんどの議員にとっても、中東政策は重要課題ではなく、下手にイスラエルを批判して落選させられるより、親イスラエル的なことを主張して献金をもらった方が得だった。

 911後のアメリカではアラブ人が一気に悪者になったから、この傾向はますます強まった。「サダム・フセインをつぶせ」というAIPACの主張に反対する議員はほとんどいなくなり、議員たちは競って好戦的な発言を行うようになった。

 AIPACは、他のイスラエル右派系の在米政治団体と結束し、ユダヤ系アメリカ人の財界人がイスラエルに協力しないことを責めて献金を集めたり、企業の関係者が反ユダヤ的な言動を行った場合、それにつけ込んで献金をさせたりして、資金集めを積極的に行った。マスコミに対しても、イスラエルを批判する筆者に対してはユダヤ人差別のレッテルを貼り、マスコミがイスラエルやAIPACを批判しにくい状況を作った。

▼ユダヤ人どうしの情報戦争

 イスラエル右派は、マスコミが親イスラエル・反アラブ的な中東報道を行うよう圧力をかけるとともに、MEMRICAMERAといった、中東の出来事をイスラエル寄りの視点で報じるニュース解説サイトを立ち上げるなどして、活発にプロパガンダ戦略を行ってきた。

 一方、アメリカのマスコミでは国際協調派の勢力も強く、彼らは「イスラエルはパレスチナ人を苦しめている」という宣伝戦略を展開している。両者のプロパガンダ合戦の結果、パレスチナ問題をめぐる報道の量は、他の問題に関する報道よりもはるかに多くなっている。

 ユダヤ系アメリカ人のジャーナリストの中には、セイモア・ハーシュジム・ローブなど、イスラエル右派を批判する論調の記事を多数書いている人も多い。

 イスラエル右派やネオコンの実態を暴いた記事が多い Antiwar.comフォワードなどのネット上のメディアは、いずれもユダヤ系アメリカ人による運営である。ジャーナリズム界の最終戦争は、ユダヤ人どうしの戦いとなっている。(関連記事

 イスラエル右派系の政治団体として著名なものとしては、すでに挙げたAIPAC、MEMRI、CAMERAのほか、ADL、JINSA、AEI、PNACなどがある。(関連記事

 ここまで、イスラエル右派を批判する論調で書いてきたが、私は、イスラエル右派だけを悪者扱いすることには疑問がある。前回の記事に書いたように、彼らは100年前から大英帝国(米英の国際協調派)と戦い続けている。国際協調派は自分たちの姿をまったく顕さず、敵であるイスラエル右派を悪者に仕立てることに成功している。イスラエル右派のみを批判することは、気がつかないうちに国際協調派の策にはまっていることになる。

▼イスラエル右派、突然の崩壊

 1985年のイラン・コントラ事件から、1994年のオスロ合意締結あたりまで、左派(国際協調派)に負けていたイスラエル右派系の団体は、1995年にイスラエルで和平派のラビン首相が暗殺され、1996年にイスラエルでリクードのネタニヤフ政権ができたころから再び力を盛り返し、911事件とブッシュの「中東民主化戦略」によって、無敵の力を持ったかのように見えた。

 ところが今、イスラエルで起きていることは、かつては「入植運動の父」と呼ばれ、右派だったはずのシャロン首相が、右派が最も大事にしてきた入植地を撤退する政策を進め、ガザ撤退に暴力的に反対する右派を「凶悪犯」と呼ぶという事態である。入植者がシャロンを暗殺しようとしているという指摘もある。(関連記事

 シャロンは、右派に牛耳られているイスラエル軍や住宅省などから、右派を排除する政策も進めている。少し前まで「シャロンの撤退策は口だけだ」と左右両極から言われていたが、どうやら彼は本気のようである。

 しかもアメリカでは、AIPACは幹部がFBIからスパイ容疑をかけられ、政治力を失いかけている。これまでイスラエル右派の熱狂的な信奉者で、ブッシュ政権の親イスラエル傾向を生み出す原因になっていたアメリカのキリスト教原理主義の諸団体も、相次いでパレスチナ和平を認める方向で方針転換を進めている。(関連記事

 無敵に見えたイスラエル右派が、イスラエルとアメリカの両方で、窮地に陥っている。しかも、どういう経緯で無敵の彼らが窮地に陥ったのか、ほとんど見えてこない。一体何が起きているのか。シオニスト右派は、90年前にバルフォア宣言でロスチャイルドに騙されたように、再び国際協調派に逆転されてしまうのか。シャロンや、キリスト教原理主義諸団体の変心の裏にあるものは何か。AIPACに対するFBIの捜査が転換の原因なのか。

 事態の変化が急で、しかも不明瞭で隠然とした動きなので、このあたりのことは私にもまだよく分からない。とりあえず次回も、この件や、アメリカで起きているAIPACをめぐるスパイ事件などについて解説していく予定だ。



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