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仕組まれた9・11 【10】 ブッシュ一族

  田中 宇

 今アメリカの大統領をしているジョージ・W・ブッシュがビジネススクールを卒業し、最初に自分の会社を故郷のテキサス州に設立したのは、30歳だった1978年のことだ。設立したのは「アルブスト・エネルギー」という石油採掘会社で、「アルブスト」という名前はスペイン語で「茂み」という意味である。これを英語に直すと「ブッシュ」になる。テキサスはスペイン語圏のメキシコに国境を接しており、自分の名前を変化させて社名にしたのだった。
 ブッシュ家は、祖父の代から石油業界の経営者だったから、父親のジョージ・H・ブッシュ(元大統領)が息子に石油会社の設立をすすめた。アルブスト社は、設立から3年間は利益が出ていた。ジョージ・Wが石油事業を手がけるのは、これが初めてだった。最初から利益が出せたのは、父親がテキサスの業界関係者への口利きを手伝ってくれたことが大きかったと思われる。父親はこの時期、ニクソン政権のCIA長官からレーガン政権の副大統領になり、影響力が強まっていた。

 この時期に、アルブスト石油に資本参加した人物の中にサレム・ビンラディンがいた。オサマ・ビンラディンの兄である。52人いるといわれる兄弟の中の最年長で、ビンラディン一族の家業を彼が継ぐことになっていた。
 ビンラディンがブッシュの会社に投資したのは、父親が石油業界からCIA長官になったことと関係している。CIAは1979年、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に対抗するため、サウジアラビア政府と協力し、サウジを中心とする中東全域から「聖戦士」を募集し、パキスタン軍に訓練させてアフガンの前線に送り込んでいた。ビンラディン家は、サウジ王家に代わって聖戦士募集に携わり、若いオサマをアフガニスタンに送り込んだ。
 ブッシュの父親は、サウジの石油とアフガン戦争という二つの要素でビンラディン家とつながり、ビンラディン家の若旦那がブッシュ家の御曹司の会社に投資するという、息子どうしのつながりになった。(サレム・ビンラディンは1988年、テキサスのブッシュ家所有の油田上空で、軽飛行機を操縦して飛行中に墜落し、死亡した)

 こんなコネクションにもかかわらず、その後アルブスト社は試掘が当たらず赤字となり、1982年には倒産寸前となった。これを見た父親は、テキサスの石油業界に頼み「スペクトラム7」という会社の経営者に、息子の会社を吸収合併してもらった。ジョージ・Wはその会社の取締役として経営を続けた。
 ところが86年には、スペクトラム7も経営難に陥った。するとこんどは、父親が属している共和党を支持する財界人が、自分のハークン石油という会社に、スペクトラム7を吸収合併させた。ジョージ・Wはハークン石油の顧問となった。
 ハークン石油も大きな会社ではなく、テキサス周辺の石油開発しか手がけていなかったが、合併から4年後の90年1月、アメリカの大手石油会社が狙っていたペルシャ湾岸のバーレーンの有望な油田開発をバーレーン政府から単独受注し、業界関係者を驚かせた。当時、ブッシュの父親は副大統領で、業界では「これはハークンの経営者がブッシュの息子の会社を救済合併したことの見返りに違いない」とささやかれた。

 ところがその7カ月後、イラクがクウェートに侵攻し、ペルシャ湾岸は騒然となった。湾岸の油田開発に資金を貸していた金融機関はいっせいに金を引き上げ、ハークン石油は倒産の危機に瀕した。こうした動きが始まる直前の1990年6月、ジョージ・Wはハークンの株を売却した。その1週間後、ハークンは業績悪化を発表し、株価は急落した。
 インサイダー取引の疑いがあるとして、証券取引監視委員会(SEC)が調査を開始したが、結局何のおとがめもなしだった。後日、ジョージ・Wが政治の中枢に登りつめようとするとき、ジャーナリストがこの株取引に関して調べようとしたが、SECが保管していたはずのファイルは、いつのまにか行方不明になっていた。

 ジョージ・W・ブッシュは4人兄弟の長男だった(ほかに妹が一人)。兄弟のうち、一つ下の弟であるジェブ・ブッシュはフロリダ州知事をしており、兄と同様に政治家の道に進んだが、ジェブも政界に進出するまでは会社経営などのビジネスをしていた。他の2人の弟たちは、今も実業界にいる。
 息子たちにビジネスで経験を積ませるのは父親の教育方針だった。子供たちがビジネスに失敗した場合には父親の政治力で救済し、経営責任を問われて経歴に傷がつくのを防いでいた。経営の才覚がなかったと思われる長男のジョージ・Wは、その恩恵を何度も受けたのだった。長男と次男がその後政界に入れたのも、父親の協力が大きかった。

 父のジョージ・H・ブッシュも、そのまた父親であるプレスコット・ブッシュから、ビジネス界で修行した後で政界に入る人生コースを教えられた。ジョージ・Wら4兄弟の祖父にあたるプレスコットは、ニューヨークの銀行家から、1950年代に上院議員になった人である。彼が経営していたユニオン銀行は、第二次大戦中の1942年、敵国だったナチスの空軍に航空燃料を売るビジネスに関与していたことが暴露されている。
http://www.tarpley.net/bush2.htm
 祖父がナチスと、息子や孫がビンラディン家とビジネスをしていたことから「ブッシュ家は、アメリカの『敵』と石油関係のビジネスをして儲けるのが代々の家業なのだ」と批判する人々もいる。
http://www.americanfreedomnews.com/afn_articles/bushsecrets.htm

 ブッシュ家とビンラディン家のつながりは、2代目ブッシュ(ジョージ・H)がアフガン戦争の際にCIA長官だったことと関係しているのではないか、と書いたが、2代目ブッシュは長官になる前からCIAの仕事をしていたという指摘もある。
 たとえば、2000年秋のジョージ・Wの大統領選挙期間中のニューヨーク・タイムスの記事に、ジョージ・Wがビジネススクール在学中の1975年、夏休みのビジネス実践経験として、石油パイプラインの工事が進んでいたアラスカの建設会社で働いた時のことが出ている。
 働かせてもらうにあたって父親のコネが使われた可能性が大きいのだが、ジョージ・Wを受け入れた後、この建設会社には、思わぬ方面から受注がきた。この会社は小型飛行機の販売も手がけていたが、CIAやイランの国王などから取引の引き合いが舞い込んだのだった。当時、イランはイスラム革命が起きる3年前で、国民からの信任が低下し続けていたイラン国王は、CIAのテコ入れで反政府派を弾圧している最中だった。

 これはブッシュの父親がCIA長官に就任する前年のことだ。父親は就任直前の議会での公聴会で「これまでCIAの仕事をしたことは一度もない」と証言したが、その信憑性には疑いがある。
http://www.google.com/search?q=cache:Mk2MvOTgAoQC:www.theage.com.au/news/20001022/A64968-2000Oct21.html

▼ケネディ暗殺とブッシュ

 1963年11月22日、ケネディ大統領が暗殺されたが、それから1週間後の日付で、FBIのフーバー長官が国務省に報告したメモが存在している。そのメモによると、フーバーは「暗殺事件の直後、CIAのジョージ・ブッシュから、ケネディ暗殺に対するマイアミの亡命キューバ人の反応について報告を受けた」という。
 フーバーがブッシュから受けた報告の内容についての文書は、機密が解かれることなく粉砕されてしまっており、報告を受けたという事実についてのメモだけが残っているにすぎない。このメモの存在をマスコミが報じたとき、CIAは「当時のCIAには後に大統領になったブッシュとは別人の、ジョージ・ウィリアム・ブッシュという人物がおり、そちらのことを指しているのではないか」とコメントしている。
http://inquirer.gn.apc.org/bush_story.html

 確かに、CIAにはもう一人ジョージ・ブッシュが在籍していたことが分かっている。しかし、2代目ブッシュとケネディ暗殺事件との関係をもう少し調べていくと、ほかにも意外なつながりがあることが見えてくる。
 そのひとつは、リチャード・ニクソン元大統領が登場するものだ。カリフォルニア州の貧しい家庭に生まれたニクソンが政界に入ったきっかけは、1941に初代ブッシュ(プレスコット)が、仲間の財界人たちとともに自分たちのビジネス権益を守ってくれる若手議員を生み出そうと新聞広告を出し、それにニクソンが応募したことだった。ニクソンは、その5年後に共和党から連邦議会の下院議員に当選している。
http://www.sumeria.net/politics/kennedy.html
 ニクソンはマフィアを使って政治をすることで知られ、ケネディ大統領の暗殺犯とされたリー・ハーベイ・オズワルドを射殺したジャック・ルビーというキャバレー経営者は、もともとニクソンのワシントン事務所に出入りしていたことが、その後FBIが公開した資料で分かっている。またニクソンはケネディ暗殺の3時間前まで、暗殺現場となったテキサス州ダラスに滞在していた。
http://www.maedafamily.com/nixsonindallas.htm

 2代目ブッシュは1966年に下院議員に当選するまで、テキサスでサパタ石油という石油会社を経営し、中南米や中東の油田地域を回って石油ビジネスに専念していたことになっている。だが、自伝などでもブッシュがこの時代にやっていたことの内容については曖昧にしか書かれていない。そのため、ブッシュ政権に批判的な人々の中には、ブッシュはこの期間、石油会社を運営する一方で、中南米や中東でのCIAの作戦に協力したのではないか、と考える人々がいる。
http://www.geocities.com/mevlevi2000/skbo7.htm

 ケネディ暗殺の遠因となったといわれる事件は、1961年にCIAがフロリダ州の亡命キューバ人たちに軍事訓練をほどこし、キューバに侵攻させてカストロ政権を倒そうとして失敗した「ピッグス湾事件」である。この事件にも、ブッシュが関与していたという指摘もある。このとき侵略軍をキューバまで運んだCIAの3隻の船の名前は、ブッシュの会社の名前(サパタ号)、妻の名前(バーバラ号)、町の名前(ヒューストン号)と、なぜか重なっていたことが、その根拠だというものだ。この説が正しいとすれば、ケネディ暗殺の直後にFBIが亡命キューバ人の反応をブッシュに尋ねたというメモともつながることになる。

 1960年代前半のこの時期、中南米ではキューバでカストロ政権が誕生し(1959年)、それまでキューバの政権を握っていたバチスタ将軍らは独裁政権で、国民のごく一部である裕福層が、軍や私兵を使って貧しい一般国民の不満を抑えていた。カストロ政権の誕生後、旧支配層はアメリカのフロリダ州などに亡命してきたが、その中には麻薬取引の関係者や用心棒稼業の人々が多く含まれていた。いわゆるマフィアである。
 当時は冷戦が激化していたときで、アメリカ政府は社会主義化してソ連寄りになったキューバを嫌い、亡命キューバ人たちを使ってカストロ政権を倒す戦略を立てたが、この戦略の中心にいたのがCIAだった。

 第二次大戦の終結とともに始まった冷戦は、アメリカ政界内部におけるCIAと軍の力を急拡大させることになった。議会など政界には彼らの権力拡大を嫌う人々がいて、予算拡大には反対が多かった。そのためCIAは、亡命キューバ人たちが中南米からアメリカに向けて麻薬を輸入して儲けることを黙認し、これを資金源としてキューバ反攻や、ニカラグアの「コントラ」など、他の中南米諸国でも社会主義政権と戦う武装勢力を育てた。

(1970年代になって、麻薬取引の拡大で米国内の麻薬問題が悪化し、麻薬取締りが強化されるようになると、イラン・コントラ事件で暴露されたように、イランに武器を売却した代金が資金源になったりした)
 1961年に大統領になったケネディは、CIAと軍が冷戦を名目に権力を拡大し、大統領でも統御できない状態になりつつあった当時の状態を嫌い、CIAのキューバ反攻に反対し、61年のピッグス湾事件で反攻が失敗すると、その責任をCIAに負わせることを名目にCIAの解体を試みた。それ以来、ケネディとCIAとの確執が激化し、両者はベトナム戦争に突入する前の南ベトナムに対する米軍の支援でも激しく対立した。それは1963年にケネディが暗殺されるまで続き、ケネディ暗殺後、アメリカは急速にベトナム戦争の泥沼に突っ込むことになった。

▼3代目を大統領にする

 CIAがどこで何をしているかという情報は、全くといっていいほど公開されていないので、ケネディ暗殺やピッグス湾事件にブッシュやニクソンがどのように関与していたか、真相はまったく不明だ。今後明らかになることもないだろう。だが、亡命キューバ人が多いフロリダ州で次男のジェブ・ブッシュが知事に当選できたということは、ブッシュの父親がやってきた仕事と関係あったのではないかとも思える。

 ジェブ・ブッシュをフロリダ州知事にしたことは、ブッシュ家にとって、長男のジョージ・Wを大統領にするときにも役立つことになった。2000年秋の大統領選挙で、フロリダ州は投票から何日間も勝敗が決まらず、最終的にフロリダでブッシュが勝ったことがブッシュ政権の誕生につながった。ところが選挙の後、重い犯罪者には投票が許されていない州の規定を州政府が拡大解釈し、本来は投票権を与えるべきだった他州での有罪経験者なども投票禁止(公民権剥奪)の対象にしていたことが発覚した。
http://www.usccr.gov/pubs/vote2000/press.htm

 不正に投票禁止にされた人数は公表されていないが、この問題を調べたジャーナリストのグレッグ・パラストによると、投票禁止にされたのは約6万人で、このうち9割は不正な剥奪で、本来投票する権利があった。投票が禁止された人々の大半はアフリカ系の人々(黒人)だった。
http://www.guerrillanews.com/counter_intelligence/235.html
 また、アフリカ系の人々が多く住む地域では、投票日に投票所の手前に臨時の警察の検問所が設けられ、投票に行こうとする人々を止めて尋問したりした。一般に黒人の多くは民主党を支持しており、これは州政府を握る共和党が有利な選挙結果を出すために操作したのだと指摘されている。共和党は人種差別を助長する傾向があり、一石二鳥の選挙戦略というわけだった。
http://www.salon.com/politics/feature/2001/06/08/commission/

 連邦人権委員会が調査に入り、不正な選挙だったと公式に発表したが、アメリカの大手新聞では小さくしか報じられていない。人権委員会が不正を行った人物として名指ししたのは、ジェブ・ブッシュ知事の部下にあたるフロリダ州行政長官だった。他の人が知事をやっていたら、このような不正は行われず、兄のジョージ・Wは大統領になれなかっただろう。

【11】エンロンが仕掛けた「自由化」という名の金権政治



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