●ブルネイについて

 以下の文章は、作者が95年10月にブルネイを旅行した際の体験を書き残そうとした旅行記の一部です。イギリスで発行されている格安旅行ガイドブック「HANDBOOK」の歴史解説などを参考にしました。


 ブルネイはボルネオ島の北西海岸にあり、国土の八割をジャングルにおおわれた千葉県ほどの広さ。シンガポールのような都市国家ならまだしも、こんなジャングルばかりの場所にあるにしてはあまりに小さな国だ。しかも三方をぐるりとマレーシアに囲まれている。マレーシアもブルネイも、かつてはイギリスの植民地(正確にはブルネイはイギリスの保護領)だった。なぜここだけマレーシアの一部にならず、独立した別の国になったのだろうか。ブルネイの歴史を調べると、意外なことに昔は大きな国だったが、世界史の大きな流れに翻弄されて、今の姿になったことが分かった。
 ブルネイが国家としての形を整えたのは十四世紀のこと。中国とインド、アラビアを結ぶ海上の貿易ルートがこのあたりを通っていたため、風待ちの寄港地として栄え始めた。ブルネイは湾の奥にあり、船の停泊に適した場所だった。加えてボルネオ島は樟脳(タンスの中に入れる防虫剤)や材木の産地でもあり、ブルネイ国王は豊かな資産を持つようになった。現在まで続くブルネイ王室は、日本の天皇に続き世界で二番目に長い歴史を持つ王室である。
 十五世紀には国王がイスラム教徒になった。アラビア商人は商品だけでなく宗教も運んできた。国王が改宗したきっかけは、イスラム商人の貿易港だったマラッカ(マレーシアの西海岸、シンガポールの近く)に住むイスラム教徒の貴族の娘と結婚したからだった。イスラム教徒は異教徒とは結婚できない決まりになっており、イスラム教徒の女性と結婚するには国王といえどもイスラム教徒になる必要があった。イスラム教徒になったことで国王はスルタン(イスラム教国の王)と呼ばれるようになった。ちなみに、イスラム教徒と結婚する異教徒はイスラムに改宗しなければならないという決まりは、今も世界中で厳格に守られている。
 スルタンは間もなく、王族の間だけで信仰していたイスラム教を、国民の間にも広めることによって、スルタンに対する国民の忠誠心を生み出し、強い国家を作ることができることに気づいた。フィリピンからインドネシアにかけて住んでいる海洋民族の社会には、もともと強い中央集権国家を作る風土がなかった。水辺に小さな村が点在し、それぞれが交易などでゆるやかに結びついているだけの社会だったらしい。海を自由に移動し、海産物を採って暮らす人々には、大きな国家など必要なかったのである。
 イスラム教は統治の道具として便利だ。お寺や教会といった宗教の中心が政治権力から独立し、宗教の対象が個人生活のあるべき姿や人生哲学に限定されている仏教やキリスト教と違い、イスラム教では教えの中に政治や経済の法律が含まれている。「目には目を」の刑法や「利子を取ってはならない」とするイスラム金融制度がその代表だ。国民がイスラム教徒になれば、自然とイスラム法に基づく国家運営ができるようになる。ブルネイは十五世紀後半にイスラム国家となり、イスラム教を周辺地域の人々に布教していくことにより、国家の領土も広がっていった。
 ブルネイの領土としての最盛期は十六世紀で、ボルネオ島全域と、その北にある現在のフィリピン南部、ミンダナオ島までの広い国土を持っていた。一時はマニラ周辺からも貢ぎ物が届けられた。当時、ボルネオ島からフィリピンにかけては他に大きな国がなかったので、大きな戦いもなく領土を広げられたのだった。
 そのころはちょうど、ポルトガルとスペインが世界各地を次々と植民地にしていった時期でもあった。十六世紀初め、ブルネイをしのぐ貿易港だったマラッカが、ポルトガルとの戦いに負け、植民地になってしまった。マラッカに住んでいたマレー人やアラビア人の商人たちがブルネイに引っ越してきたため、貿易港としてのブルネイの重要さが増した。ポルトガルはブルネイと友好関係を結んだので、香辛料の世界的な生産地だったモルッカ諸島(今はインドネシア領)で採れたコショウを積んだ船が、ブルネイに寄港した後、マラッカ、インド、アフリカを回ってヨーロッパまで航海した。ブルネイから中国のマカオに行く貿易航路もでき、十六世紀中ごろに日本に初めて届けられた鉄砲も、ポルトガルからブルネイを通るルートで運ばれたのだろう。
 ポルトガルとの友好関係と異なり、フィリピンを植民地にしたスペインとは、フィリピンの領有をめぐり激しく対立した。スペインとの戦いは最初、かろうじてブルネイが勝ったものの、その後間もなくスペインはポルトガルを併合した。ブルネイは友好関係にあった後ろ盾を失い、十七世紀にかけて何度もスペインに攻められて町を燃やされた。それまでおとなしくしていた海賊も領海をばっこし始め、貿易船が近寄らなくなって港もさびれた。貿易が減って財政が苦しくなったスルタンは国民からの税金を増やして反発をかい、あちこちで反乱が起きた。王族どうしの内紛も始まり、ブルネイは長い没落の時代に入っていった。十八世紀末には、スルタンが実際に統治している地域はブルネイ市街の周辺だけとなり、今のブルネイ領土とほぼ同じ広さになっていた。
 十九世紀中ごろ、南部のサラワク州で起きた反乱の鎮圧に失敗して困っていたスルタンのところに、一人のイギリス人冒険家がやってきた。ジェームス・ブルックというその男はスルタンの依頼を受け、船でサラワクに乗り込んで反乱を鎮圧。見返りに自分をサラワクの領主にするようスルタンに求め、受け入れられた。江戸時代の日本にきたヨーロッパ人が大名になるような話である。ブルックはその後、サラワクの領有権をイギリス女王に献上した。
 ブルックは陰謀家だった。ブルネイの王族の一部と親しくなり、スルタンを倒すクーデターを起こすことを持ちかけた。クーデター計画はスルタン側に漏れ、ブルック派の王族は処刑され、スルタンはブルックに立ち向かってきた。だが軍事力ではブルックの方が強い。ブルックは首都の町を焼き討ちし、スルタンはイギリス女王に忠誠を誓うことを条件に追放を逃れた。こうしてブルネイは十九世紀半ばにイギリスの保護領となり、宗教行事以外の全ての行政をイギリス人が行うようになった。イギリスがスルタンを退位させて完全な植民地にしなかったのは、ブルネイ人のイギリスへの反感が強まらないように考えての方策だった。
 ミンダナオ島とその西のスル諸島では、ブルネイ王に服従していた領主が十七世紀後半にスル王国として独立、その後スル国王はボルネオ島北部のサバ州で増税に反対して起きた反乱を鎮圧した見返りに、サバ州をスルに割譲させた。サバは今、マレーシア領だが、フィリピンは当時の経緯から、サバはフィリピン領だと今も主張している。  その後スル王国はフィリピン全土を支配しようとしたスペインに攻撃されて弱くなったため、ブルックはサバ州の領有も狙っていた。ブルックに破れる前、スルタンはイギリスに全ての領土を取られることを恐れ、サバ州の運営をアメリカ人の事業家に任せたがうまくいかず、結局ここもイギリスの植民地となった。
 一九二六年、ブルネイで油田が発見された。第二次大戦中の一九四二年から四五年には石油目当てに日本軍がブルネイを占領、ブルネイ湾にはマレー半島やジャワ島に出撃途中の大型戦艦が並んだ。戦後、ブルネイを日本から取り返したイギリスは、ブルネイや周辺のイギリス植民地を全て統合してマレー連邦を作り、独立させる計画を進めた。だが連邦に加盟すると、ブルネイの財政源の大半を占める石油の売上金が連邦政府のものになってしまう計画だったためスルタンは反発し、加盟しなかった。マレー連邦は一九六三年にマレーシアとして独立したが、ブルネイはイギリス保護領のままとなった。
 七〇年代に入ると、イギリスは植民地政策に反対する世論が高まったため、スルタンに独立を持ちかけた。スルタンは、独立すると近隣のマレーシアとインドネシアからの干渉が強まると考え、当初は独立に消極的だったとされている。結局イギリスの取り計らいで近隣の二国がブルネイの独立を尊重すると宣言し、ブルネイは一九八四年に独立した。

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